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下田開港170周年記念事業「開国のカケラを集めて」

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静岡県下田市

■日米和親条約で下田は歴史の表舞台に
今からちょうど170年前、1854年3月に日米和親条約が神奈川で締結されました。
前年に米国大統領からの開国を促す親書を届けていたペリーは、半年で再び日本を訪れ、開国という目的の第一段階を達成したこととなります。
「鎖国」体制にあった日本において、この条約では下田と箱館の2か所を開港地として定め、公式に米国との国交が開かれることとなりました。
また、この条約の第11条には、米国官吏を日本に置くことについて定めた条文があり、2年後の1856年に日本総領事としてハリスが着任するための布石が既に打たれていたのでした。
いずれにせよ、この条約により、下田は激動の幕末史の表舞台に立つこととなります。

■「海の関所」から日本の開港地へ
「船舶の数が限られていれば、下田に勝る港はありえない。」これは『ペリー提督遠征記』の文中において、下田港を評した一節です。
開港に先立ち、ペリーは急ぎ艦隊から2隻を下田へ派遣し、湾内の測量などの調査を行いましたが、案外この港に満足したようでした。
幕府の思惑としては、江戸湾の深奥部に近づけまいとして伊豆半島の南端が選ばれたという側面もありましたが、一方で港としての下田の役割はとても大きいものでした。
古くから海上交通の要衝であった下田には、江戸時代の初め、「船改番所」が置かれ、上下の廻船を検問する「海の関所」として機能しました。
風待ちをするために入港した船が、所狭しと並んでおり、「出船入船三千艘」と言われるほどの盛況ぶりだったと伝えられています。
およそ100年程度で、この番所の機能は神奈川の浦賀へと移転しますが、番所の置かれた大浦湾の磯には、「もやい石」と呼ばれる、船を係留するための穴が現在も多く残っており、往時の隆盛を偲ぶことができます。
幕末に開港地として下田の名が挙がったのは、こうした歴史を持つ港として、面目躍如とも言える出来事だったのではないでしょうか。

問合せ先:企画課政策推進係
【電話】22-2212

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