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下田開港170周年記念事業「開国のカケラを集めて」

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静岡県下田市

■寝耳に水の黒船来航?
1853年6月にペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀に現れた際、多くの人々が久里浜で国書を受け取る様子を見物したそうです。
その中に、吉田松陰の姿もありました。このとき24歳。今よりも圧倒的に情報ツールの少ない江戸時代、下級武士の吉田松陰でも黒船来航の情報を手にすることができたということは、松陰が大変な勉強家であり、日本中を歩き、知見を広げていたことを差し引いても、幕府の上層部だけが知りえるもの、というわけではなかったようです。
「泰平の眠りをさます じょうきせん たった四はいで夜も眠れず」
これは、黒船来航時に詠まれたといわれる狂歌で、とても有名なものだと思います。
突然現れた黒船に人々が右往左往する様子を表現したものですが、このイメージが先行してしまい、黒船が唐突に出現したと考えてしまう方が多いかもしれません。

■ペリー艦隊来航の60年前
1793年、ときの老中、松平定信(寛政の改革で有名)は外国船からの海防のため、伊豆を見分しています。
実は、外国船の往来はペリー来航のかなり前から幕府にとって大きな懸案でした。
ロシアからの開国要求を受け、交渉を進める中、幕府は海防の必要性を感じ始めていました。
松平定信の見分後、1807年に幕府の役人が下田を巡視し、州佐里崎(須崎)への御台場建造が決定します。
財政難によって建設は一度中止してしまいますが、アヘン戦争での清国の敗北を知り、危機感を募らせた幕府は1842年(当初の計画から35年後)に州佐里崎と狼煙崎に御台場を建設しました。
幕府の政策自体は確かに右往左往していたのか、設置から1年余で御台場は廃止され、役目は急に終わりました。
その10年後に下田が開港地になろうとは、そのとき誰も思わなかったでしょう。
ペリー来航の60年も前から鎖国か開国かで日本が既に揺れており、一定層の人々の間には外国の存在が念頭にあったのです。

問合せ先:企画課政策推進係
【電話】22-2212

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