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◆下田の幕末コレラ騒動
令和の日本で新型コロナの感染が流行しているように、幕末の日本では、コレラという感染症が流行していました。下田でも感染者の拡大に対して様々な対策を取りましたが、行動制限や薬の配布のほかに、疫病退散を目的とした加持祈祷(かじきとう)や、祭事で使う金幣(きんぺい)などの神具を町内に回した記録も残っています。
さらに、コレラの原因がキツネだとする説から、山中で空砲を打ち鳴らしたり、天敵のオオカミを祀る秩父三峯神社(ちちぶみつみねじんじゃ)から御札を借りてくるなど、対応は多岐にわたります。
港町で人の往来が激しかった下田では、感染症のリスクも高かったことかと思いますが、予防や治療の情報が少ない中でも、人々はあの手この手で感染を収束させようと尽力したことが分かります。
◆遊歩権と幻の反射炉計画
幕末に開港した下田では、日米和親条約の規定により、港内の犬走島から七里(約28km)圏内を米国人が自由に歩き回れる「外国人遊歩権」が初めて認められました。
当時、日本を訪れた外国人の多くは、事前に日本についてある程度の下調べをしていましたが、それでも、長く鎖国下にあった島国で見聞きするものは何もかもが新鮮でした。彼らが感じた驚きや発見は、現在も報告書や日記、絵などから見ることができます。またこの時、現在の高馬付近では、大砲鋳造等のために反射炉が造られていましたが、外国人の出入りが頻繁であることから、急遽中止となってしまいました。その後、建設場所を移して完成したのが、現在、世界遺産としても知られる韮山反射炉なのです。
◆文化と文化が出会うとき
海運が主要な物流経路であった江戸時代、港町である下田では江戸や上方(かみがた)の文化がいち早く流入したと言われています。同じように、今度は開国によって外国船が碇泊(ていはく)し、一時的にではありますが、下田は海外の文化を受容する窓口となり、早い段階から外国人との交流も見られました。
そして、異なる文化に出会うというのは、時に衝突を伴うこともありますが、下田が開港地としての役目を果たすことができたのは、古くから海を通じて外部に開かれてきた歴史があったというのも大きいのではないでしょうか。
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