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特集 戦国時代の富士宮

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静岡県富士宮市

■第7回 家康の五カ国支配
富士宮は、徳川家康をはじめ戦国時代の名立たる武将が入り乱れ、勢力を争い、戦った場所です。
戦国武将にまつわる歴史や史跡などを紹介する
-特集 戦国時代の富士宮-
戦国時代の富士宮の歴史や文化に触れ、当時の人々に思いを馳せてみませんか。

◇2023年大河ドラマ「どうする家康」(NHK)
日曜日 放送予定
ひとりの弱き少年が、乱世を終わらせた奇跡と希望の物語国を失い、父を亡くし、母と離れ、心に傷を抱えた孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし―三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物が割拠する、乱世に飛び込んだ。待っていたのは死ぬか生きるか大ピンチ!計算違いの連続!我慢の限界!どうする家康!
主演:松本潤(徳川家康役)
作:古沢良太

◇織田信長の死
1582年3月、甲州攻めにより武田氏を滅亡させた織田信長は、戦いで活躍した武将に、武田氏の領国であった甲斐国(かいのくに)・信濃国(しなののくに)・駿河国(するがのくに)・上野国(こうずけのくに)などを与えました。
しかし、6月、本能寺(ほんのうじ)の変※により、信長が死去すると、武田氏旧領国の支配は崩壊し、三河国(みかわのくに)・遠江国(とおとうみのくに)・駿河国を支配する徳川家康と、伊豆国・相模国(さがみのくに)・武蔵国(むさしのくに)などを支配する北条氏政(うじまさ)との間に、甲斐国や信濃国などをめぐる争いが起こりました(天正壬午(てんしょうじんご)の乱)。
※家臣の明智光秀(あけちみつひで)が裏切り、本能寺(京都府)で、信長を襲撃した事件

◇家康の五カ国支配
10月、天正壬午の乱が収まると、家康は、三河国・遠江国・駿河国に甲斐国・信濃国を加えた5カ国の大名となり、1590年まで治めました。
このとき、家康は北条氏の領国と隣接する河東(かとう)(富士川から東の駿河国一帯)の防衛や治安維持を強化しました※1。
家康は、駿東郡の長久保城(長泉町)や、三枚橋城(沼津市)にいる家臣に、富士郡(富士宮市・富士市一帯)の支配や防衛を担当させました。
家康は、戦乱により不安定となった富士上方(かみかた)(富士宮市・富士市北部)や富士下方(しもかた)(富士市)などの立て直しを図るため、検地(けんち)※2や用水路の開削(かいさく)、駿河国と甲斐国を結ぶ中道往還(なかみちおうかん)上の伝馬(てんま)制度※3の再整備などを行いました。
家康が発行した朱印状には、大宮浅間神社(富士山本宮浅間大社)などの寺社の復興や保護、さまざまな商売の振興について書かれています。
※1 天正壬午の乱の長期化を懸念した家康と氏政(うじなお)は、和睦の証として、1583年8月、家康の娘・督姫(とくひめ)と氏政の子・氏直の婚姻関係を結んだが、家康は北条氏の動きを警戒し、軍備を固めた。
※2 水田や田畑の面積、収穫高、年貢(税金)を納める耕作者などを調べること。
※3 宿駅に人馬を常駐させ、宿場ごとに人や公用の荷物を交替して運ぶ制度。

◎家康の5カ国支配の頃の勢力図
・徳川氏の支配地
三河(愛知県東部・中部)
遠江(静岡県西部)
駿河(静岡県東部・中部)
甲斐(山梨県)
信濃(長野県)
・北条氏の支配地
伊豆
相模(神奈川県西部)
武蔵(東京都・埼玉県)
上野(群馬県)

◇ゆかりの地
・取水口
内野横手沢に設置され、その様子が江戸時代の北山用水経図にも描かれている。
・北山本門寺
甲州攻めの際、当時の貫主(かんしゅ)※・日出(にちしゅつ)が本尊を家康に貸したところ、鉄砲から守られたと伝わる(鉄砲曼荼羅)。
※住職
・北山用水掛樋
大久保沢の深い谷の両側から、木製の樋を掛けて用水を通したとされる。

◇家康と北山(本門寺)用水
富士宮市は、富士山の湧水に恵まれる地域が多い一方で、水のない地域では、天水(雨水)に頼る生活が長く続い
ていました。江戸時代から明治時代にかけて、水のない土地を開発するために、芝川や潤井川などの河川や湧水を水源に、多くの用水が開削されました。
1582年、家康は北山本門寺の願いを受け、家臣・井出正次(まさつぐ)に用水路の開削を命じました。正次は、芝川の水を内野横手沢から引く工事を4カ月で完成させたといわれています。
この北山(本門寺)用水は、江戸時代には、北山のほか、外神、宮原、山宮、万野原新田まで広げられ、生活に必要な
水を確保しやすくなりました。

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