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特集 戦国時代の富士宮

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静岡県富士宮市

■第8回 徳川氏と富士宮
富士宮は、徳川家康をはじめ戦国時代の名立たる武将が入り乱れ、勢力を争い、戦った場所です。
戦国武将にまつわる歴史や史跡などを紹介する
-特集 戦国時代の富士宮-
戦国時代の富士宮の歴史や文化に触れ、当時の人々に思いを馳せてみませんか。

◆2023年大河ドラマ「どうする家康」(NHK)
日曜日 放送予定
ひとりの弱き少年が、乱世を終わらせた奇跡と希望の物語
国を失い、父を亡くし、母と離れ、心に傷を抱えた孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし―三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物が割拠する、乱世に飛び込んだ。
待っていたのは死ぬか生きるか大ピンチ!計算違いの連続!我慢の限界!どうする家康!
主演:松本潤(徳川家康役)
作:古沢良太

◆天下統一
▽秀吉と駿河国
1582年、織田信長が死去する※1と、豊臣秀吉は、関東(相模国(さがみのくに)・武蔵国(むさしのくに)・伊豆国(いずのくに)・上野国(こうずけのくに)など)を支配する北条氏を滅亡させたほか、東北地方の大名を制圧し、1590年、天下を統一しました。
秀吉は、三河国(みかわのくに)・遠江国(とおとみのくに)・駿河国(するがのくに)・甲斐国(かいのくに)・信濃国(しなののくに)を支配する徳川家康に対し関東への国替えを命じ※2、駿河国には、家臣・中村一氏(かずうじ)を置き、支配させました。
※1…1582年、信長は家臣・明智光秀(あけちみつひで)の裏切りにより、本能寺(ほんのうじ)(京都府)で襲撃された(本能寺の変)。
※2…秀吉は、日本の中心部に位置する5カ国を支配する家康の軍事力や経済力に脅威を感じたため、政権の中枢である京都・大阪から遠ざけようとしたという説や、東北地方の大名を抑えるために命じたという説などがある。

▽家康の天下統一
1598年、秀吉は死去しました。
1600年、関ヶ原の戦い※1に勝利した家康は、1603年、朝廷から征夷(せいい)大将軍※2に任命され、天下統一と江戸幕府の成立を成し遂げました。
※1…美濃国(岐阜県関ケ原)を主な戦場に、全国各地で戦いが繰り広げられ、天下分け目の戦いといわれる。
※2…全国の大名を統率する役職のこと。

◆「天下人」家康
▽帰ってきた家康
1605年、家康は子・秀忠(ひでただ)に征夷大将軍を譲りましたが、「大御所(おおごしょ)」として幕府政治の実権を握り続けました。
家康は、領国の中間地に位置する駿河国・駿府(すんぷ)(静岡市)を本拠地に定め、駿府城の改築が終わった1607年、17年ぶりに関東から駿河国へ帰ってきました。

▽家康と富士宮
関ヶ原の戦いの後、家康は、家臣・井出正次(まさつぐ)に駿河国の支配を任せていましたが、駿河国へ帰ってからは、幕府の領地となった土地の面積などを調べるため、検地を行うなど、政治に直接関わりました。
検地は、冨士山興法寺(こうほうじ)(村山浅間神社)や大宮浅間神社(富士山本宮浅間大社)、上井出・源道寺・狩宿などで行われたことが、古文書に書かれています。

◎関ヶ原の戦い直後の勢力図(徳川氏の支配地)
・相模(神奈川県西部)
・武蔵(東京都・埼玉県)
・伊豆(静岡県伊豆半島・東京都伊豆諸島)
・上野(群馬県)
・下野(しもつけ)(栃木県・群馬県の一部)
・常陸(ひたち)(茨城県)
・下総(しもうさ)(千葉県北部・茨城県南西部など)
・上総(かずさ)(千葉県中部)
・三河(愛知県東部・中部)
・遠江(静岡県西部)
・駿河(静岡県東部・中部)
・甲斐(山梨県)
・信濃(長野県)
・尾張(おわり)(愛知県西部)
・美濃(みの)(岐阜県南部・愛知県の一部)
・越前(えちぜん)(福井県・岐阜県北西部)
・近江(おうみ)(滋賀県)
・大和(やまと)(奈良県)
・山城(やましろ)(京都府南部)
※詳しくは本紙をご覧ください。

◆家康と大宮浅間神社
1606年、家康は関ヶ原の戦いでの勝利を記念して、大宮浅間神社(富士山本宮浅間大社)の本殿や拝殿、楼門(ろうもん)などを建てました。
このとき、本殿は、全国的にも珍しい浅間造(せんげんづくり)(楼閣造(ろうかくづくり))と呼ばれる2階建ての構造で造られ、現在、国指定重要文化財となっています。
現在、富士山本宮浅間大社に残る古絵図には、江戸時代の境内の様子が描かれています。

◆家康と富士山
江戸時代、富士登山をして家族の安全や幸せを祈る「富士講(ふじこう)」という組織が江戸を中心に発展するなど、多くの人々が富士山頂を目指しました。
富士講や登山者は、山頂でご来迎(らいごう)(ご来光(らいこう))を拝み、大日如来(仏)がいると考えた噴火口にお金を投げ入れる散銭(さんせん)(賽銭(さいせん))の儀式を行いました。
1609年、家康は、山頂の散銭を大宮浅間神社の修理費用として寄付したとされています。他の登山口も、山頂での権利を主張したたため、裁判となりましたが、1779年、大宮浅間神社が富士山の8合目以上を支配することが認められました。

※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

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