文字サイズ
自治体の皆さまへ

特集 戦国時代の富士宮(1)

4/37

静岡県富士宮市

■第4回 駿河国侵攻
富士宮は、徳川家康をはじめ戦国時代の名立たる武将が入り乱れ、勢力を争い、戦った場所です。
戦国武将にまつわる歴史や史跡などを紹介する-特集 戦国時代の富士宮-
戦国時代の富士宮の歴史や文化に触れ、当時の人々に思いを寄せてみませんか。

◇2023年大河ドラマ「どうする家康」(NHK)
日曜日 放送予定
ひとりの弱き少年が、乱世を終わらせた奇跡と希望の物語
国を失い、父を亡くし、母と離れ、心に傷を抱えた孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし―三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物が割拠する、乱世に飛び込んだ。待っていたのは死ぬか生きるか大ピンチ!計算違いの連続!我慢の限界!どうする家康!
主演:松本潤(徳川家康役)
作:古沢良太

《勢力を失う「今川氏」》
1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いで、今川義元(よしもと)が尾張国(おわりのくに)の織田信長に討たれると、今川氏真(うじざね)は、父・義元の政策を引き継ぎ、戦乱により不安定となった領国(りょうごく)※1の立て直しを図りました。
しかし、離反(りはん)※2する家臣(かしん)が現れ、今川氏は勢力を失い始めました。
三河国(みかわのくに)・岡崎城の松平元康(後の徳川家康)も今川氏から独立し、1562年に信長と同盟を結ぶと、1566年に三河国の統一を果たしました。

※1 戦国大名が実力で支配した国
※2 裏切り離れること

◇三国同盟の破綻
今川氏の勢力が衰えるなか、甲斐国(かいのくに)の武田信玄は、今川氏の領国・駿河国(するがのくに)への侵攻を企(くわだ)てました。これにより、駿甲相(すんこうそう)三国同盟※が破綻しました。
1568年2月、信玄と徳川家康は、「同時に今川氏を攻撃し、今川氏の領国を分け合う」という密約を交わしました。

※1554年に今川氏・北条氏・武田氏の3者が「互いの領地を侵攻しないこと」「要請に応じて軍事的に協力すること」を約束したもの

◎徳川家康が三河国を統一した頃の勢力図と同盟関係
※詳しくは、本紙またはPDF版4ページを参照してください。

《信玄の駿河国侵攻》
1568年12月、甲府を拠点とする武田信玄は、駿河国への侵攻を始めました。
そのため、北条氏は今川氏に軍事的な支援を行いました。

◇重要拠点「大宮」
甲府と駿府を結ぶ主要道路には、駿州往還(すんしゅうおうかん)と中道(なかみち)往還(甲州街道)があり、この2つの道路は、大宮付近で接近していました。
大宮は、駿河国侵攻において、安全に甲府に戻るための重要な拠点となっていたため、信玄は、大宮城(大宮小学校周辺)を攻め落そうとしました。

◇大宮城の抵抗
今川氏の家臣であり大宮城を拠点とする富士氏は、大宮城を攻撃する武田氏に対し、北条氏の支援を受けて徹底して戦う姿勢を見せました。
富士信忠(のぶただ)と子・信通(のぶみち)は、1568年12月と1569年2月に攻撃された際、大宮城に立てこもり武田氏の軍勢を撃退しました。
北条氏康(うじやす)の子・氏政(うじまさ)は、大宮城の戦いで信忠が活躍したことを「北条氏政書状」で讃えています。
書状には、「信玄が駿州に乱入した際、信忠は大宮の地を堅く守った。忠節(ちゅうせつ)※を賞し、今後は北条氏が富士氏を引き立てることを約束する。そして、更なる戦功を期待する。」と書かれています。

※主君への忠義を固く守ろうとする気持ち

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU