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掛川歴史探訪42

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静岡県掛川市

徳川家康と掛川三城(11)

天正9年ついに決着高 天神城が陥落

高天神城を巡る徳川・武田の激しい争奪戦。今回はその結末について紹介します。
天正6年(1578)以後、徳川家康の砦(とりで)群に取り囲まれる高天神城は次第に食料不足におちいります。武田勝頼は、北条氏との同盟の決裂により、駿河・伊豆方面で同氏と対立。高天神城への援軍が出せない状況でした。
天正9年(1581)正月、城代の岡部長教(おかべながのり)は、徳川方へ降伏の申し入れをしますが、拒否されます。同年3月、ついに食料・弾薬がつきた長教は、城内での軍議の結果、決死の覚悟で討って出ることにしました。そのとき、城兵は900人余りだったといわれています。ちなみに、この戦いには徳川方の、横須賀城主大須賀康高、大久保忠世、本多平八郎忠勝、榊原子平太康政などが名を連ねています。
戦いは四ツの頃(午後10時)開始。太鼓、鉄砲、馬のいななき、怒号、悲鳴とさまざまな音が城内に鳴り響く激しい戦いは、夜半のうちに決着しました。長教は、忠世の軍へ切り込み討ち死。徳川方が討ち取った首数は740余りで、その氏名は織田信長に報告されました。城の東側にはこの戦いの戦死者を埋葬した「千人塚」があり、現在地元の方により供養されています。
家康の厳しい包囲網を逃れることができた城兵はほんのわずかとされていますが、この激しい戦いをくぐりぬけ、甲斐(現山梨県)へ帰りついたのが、横田甚五郎尹松(よこたじんごろうただまつ)です。甚五郎は城の西側の馬場平から西へ延びる人一人やっと通れるほどの狭く急峻な道を通って脱出。勝頼に高天神城の落城を報告しました。この道は「犬戻り猿戻り(甚五郎抜け道)」と呼ばれています。
落城後、家康は高天神城を廃城としました。その後、奪還のために築いた横須賀城を新たな遠江の拠点として整備を進めていきます。
次回は、徳川家康と掛川三城シリーズ最終回。家康と掛川三城のその後について、紹介します。

高天神城特設サイトはこちら
※二次元コードは本紙またはPDF版をご覧下さい。

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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