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掛川歴史探訪43

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静岡県掛川市

徳川家康と掛川三城(12)
家康と掛川三城のその後

天正9年(1581)3月22日、高天神城落城。この出来事は、長きにわたる徳川・武田の攻防戦の行く末を決定づける戦いとなりました。
高天神を守りきることができなかった武田家に対する失望が領国全体に広がり、次第に織田・徳川方へ寝返る家臣たちも出てきたのです。
武田家の崩壊は思いのほか早いもので、高天神落城からわずか1年後の天正10年(1582)3月11日、織田・徳川連合軍との戦いに敗れた勝頼は甲斐天目山(山梨県甲州市)で自刃。ここに戦国大名、武田家は滅亡します。この戦いの後、家康は信長から戦いの恩賞として駿河(するが)一国を拝領し、三河・遠江(とおとうみ)・駿河をおさめる大名となりました。
ここからは、掛川三城のその後についてみてみましょう。遠江を平定した家康は、あくまで「戦いの場」であった高天神城を廃城とし、東海道筋をおさえる掛川城、横須賀湊をおさえる横須賀城をそれぞれ支配の拠点としました。
その後、天正18年(1590)に信長の跡を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉は、家康を関東地方に移し、家康の旧領の城には秀吉の家臣たちが入ります。
掛川城には山内一豊、横須賀城には渡瀬繁詮(わたせしげあき)が入城し、石垣や天守の建築、城下町の整備などを進めています。今に残る近世城郭としての基礎は、まさにこの頃に形作られ、江戸時代へと引き継がれていくのです。
さて、1月号から12回にわたり、「徳川家康と掛川三城」と題し、掛川三城をめぐる家康の軌跡を時系列に沿ってご紹介してきました。紙面の都合上、一部の紹介となりましたが、歴史探訪を片手に家康ゆかりの地を巡っていただければ望外の喜びです。
また、令和2年6月から始まりました「掛川歴史探訪」は、今回で終了します。市内のさまざまな文化財を紹介してきましたが、新たな発見はあったでしょうか。
3年半の間、お付き合いいただきありがとうございました。

高天神城特設サイトはこちら
※二次元コードは本紙またはPDF版をご覧下さい。

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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