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掛川歴史探訪(39)

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静岡県掛川市

■徳川家康と掛川三城(8) 高天神城をめぐる攻防~家康の戦略と一通の矢文~
○高天神城を包囲する家康
今回は、高天神城をめぐる攻防の様子に注目していきます。天正2年(1574)、武田勝頼はついに高天神城を奪取します。しかし、翌3年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田方は大打撃を受けます。
一方で、家康は高天神城奪還に向けて馬伏塚(まむしづか)城(浅羽)を修復し、新たに横須賀城を築城します。天正8年には高天神城を取り囲むように砦を築造し、11月には高天神城付近に陣取り柵や堀、塀などを作ります。家康の戦略は、高天神城を砦で包囲することで補給を断つとともに、城を完全に孤立させることでした。

○どうすることもできない勝頼
一方、勝頼も天正4年以降、何度も高天神城に援軍を出兵しますが、重要な拠点を奪われており長期間軍勢をとどめることができません。さらに、上杉謙信の後継者争い(御館(おたて)の乱)に介入したことにより、再び北条氏との同盟が決裂してしまいます。つまり勝頼は、西の家康だけではなく、東の北条とも戦わなければならなくなります。高天神城の補給どころか、織田、徳川、北条との間で苦しい戦いをすることになりました。

○判断を委ねる信長
天正9年(1581)1月25日以前に、一通の矢文が高天神城から徳川方へ射られたことが分かっています。内容は、高天神城側の降伏の申し出でした。条件は「高天神城ほか2つの城を明け渡す代わりに城兵の命を助けてほしい」というものでした。これに対する信長の考えが記録に残っています。「勝頼が高天神に援軍に来れば迎え撃てばよく、勝頼が高天神を見捨てるようであれば家臣の信頼を失うだけだ」という内容で、降伏を受け入れない考えでした。最終的な判断は家康に委ねられます。信長の考えを聞いた家康は、非情な決断を迫られました。結末は次号以降で紹介します。
「難攻不落」といわれた高天神城。落とせない城の最後は過酷な運命にあるのかもしれません。

高天神城特設サイトはこちら(※本紙二次元コード参照)

問合せ:文化・スポーツ振興課
【電話】21-1158

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