■第九話 徳川家康ゆかりの鋳物師・山田七郎左衛門(その九)
(広報もりまち令和6年9月号「森町の歴史・第八話」からのつづき)
慶長8年(1603)に江戸幕府が開かれると、遠州総検地(1604)が行われ、「森」や「森村」と呼ばれていた今の森町の中心市街地は「森町村」と呼ばれるようになりました。信州街道(塩の道)の要衝である森には鎌倉時代頃から市が立ったといわれ、天正5年(1577)に徳川家康がこの森市場に対して禁制を下して庇ひご護したことによりさらににぎわうようになりました。森町村には商人のみならず、鋳物師たち(山田、岡野、松井、田辺家)が居住し、その中心となって鋳物師を統率したのが、家康から「駿遠両国鋳物師惣大工職'(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」の朱印状(1587)を与えられた山田七郎左衛門家でした。
江戸時代を通じて家康の朱印状は絶大な効力を発揮し、駿遠両国で鋳物の製造と販売を行う際は、森町村の山田七郎左衛門家の許可が必要でした。平和な時代が続くと鋳物師たちは大筒(おおづつ)(大砲)などの武器を作る必要がなくなり、鍋や釜、鐘、双盤(そうばん)などが主力製品になりました。大洞院の龍門橋擬宝珠(ぎぼし)、可睡斎の秋葉山奥院勝坂不動堂鐘、高平山の大仏などに、山田七郎左衛門家の銘が刻まれています。
明治から大正時代にかけて活躍した山田七郎左衛門の末裔(えい)山田信介は、ドイツで建築板金を学び、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館、旧司法省庁舎(法務省旧本館)、旧帝国京都博物館、大阪市中央公会堂など、明治時代の名だたる西洋建築の板金を手掛けました*。こうして森町村の鋳物師の伝統は、日本の西洋建築板金の礎となり受け継がれていきました。森町は、東海を代表する鋳物の町であったのです。山田七郎左衛門編おわり。次話から山田信介編です。
*参考:松本茂「四天王寺頌徳鐘と山田信介」『遠江』第42号(2019)
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