■第六話 徳川家康ゆかりの鋳物師山田七郎左衛門(その六)
[広報もりまち令和6年3月号「森町の歴史・第五話」からのつづき]
徳川家康は大坂の陣(1614~1615年)で豊臣家を滅ぼし、天下統一を決定づけました。大阪の陣のきっかけとなったのは、方広寺(ほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう)の銘文をめぐる論争「方広寺鐘銘(しょうめい)事件」(詳細は第五話を参照)であり、この梵鐘の鋳造(ちゅうぞう)に携わったのは、家康から「駿遠両国鋳物師惣大工職(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」(1587年)の朱印状を授かり、遠江国と駿河国の鋳造と鋳物販売の総取締役を任された森町の鋳物師山田七郎左衛門と、その弟であり駿府の御用鋳物に係わった江尻の鋳物師山田六郎左衛門でした。
山田兄弟は大坂の陣に従軍し、大筒の弾等を鋳立てました。このように森町ゆかりの鋳物師山田兄弟らが、家康の御用武器職人として天下統一を支えたことは、あまり広く知られていません。
なぜ森町ゆかりの鋳物師が家康に重用されたのでしょうか。森町は古くから鍛冶(かじ)・鋳造が盛んでした。森町は信州街道(塩の道・秋葉街道)の要衝であるため、鍛冶(かじ)・鋳造に必要な莫大な燃料(炭や薪)が山中から集まり、また、丘陵地から鋳型に必要な良質な砂(砂岩)が採れました。太田川の豊富な水は、鋳物師にとっても冷却はもとより火を制御するために必須であり、水運の役目も果たしました。これらは全て豊かな自然の恵みであり、森町は鋳造に適した土地でありました。また、森町は古来市が立ち、物資の集散地であったために、家康は森市場に対して禁制を下しました(1577年)。そして、家康は市場の保護のみならず、信州へとつながる戦略上の拠点としても森町を重要視し、鋳物師を置く場所として最も必要性の高い所と考えていたのかもしれません。
さらに、山田家の由緒書では、家康の側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)が鋳物師山田家出自であったため、七郎左衛門が重用されたと伝えています。つづく。
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