■第七話 徳川家康ゆかりの鋳物師・山田七郎左衛門(その七)
(広報もりまち令和6年5月号「森町の歴史・第六話」からのつづき)
徳川家康の側室茶阿局(ちゃあのつぼね)は、家康の六男である辰千代(後の松平忠輝(まつだいらただてる))と七男の松千代を産みました。出自は諸説ありますが、森町ゆかりの鋳物師(いもじ)山田七郎左衛門の兄妹説があります。
通説では、茶阿局(法名は朝覚院)は遠江国金谷(現島田市金谷)の鋳物師(詳細は不明)の後妻で、容姿端麗であったため代官が横恋慕し、夫は殺されてしまいます。彼女はこの非道を、当時浜松城にいた家康が鷹狩に来た際に直訴し、家康に見初められてその後側室となりました。
山田家文書『諸事留書』(江戸後期)によれば、茶阿局は森町ゆかりの鋳物師山田七郎左衛門の妹で、これが家康とのつながりとなり、七郎左衛門は徳川軍に従軍して陣釜、大砲、石火矢等を鋳立て、その褒美として天正15年(1587)に家康から「駿遠両国鋳いもじ物師惣大工職(すんえんりょうこくそうだいくしき)」の朱印状を授かったと伝えています。さらに、茶阿局の父は山田少監であると伝えています。
一方、『山田家先祖由緒書』(江戸後期)では、茶阿局に関して言及しておらず、天正2年(1574)、家康の犬居城攻め(三方ヶ原の戦いに続く負け戦)の際、浜松への帰城の道案内を七郎左衛門が務め、その後、徳川軍の戦に従軍し、朱印状を与えられたと伝えています。いずれにせよ、家康の遠州侵攻の時期に、軍事的な必要性から家康と七郎左衛門のつながりができたと考えられます。
蓮華寺の鐘楼脇から北東へ約70m山を登った所に山田七郎左衛門家の墓があります。墓前の石碑裏には、『諸事留書』から写した茶阿局の法名「釣学院殿貞誉宗慶大姉(ちょうがくいんでんていよそうけいだいし)」が刻まれています。つづく。
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