■第八話 徳川家康ゆかりの鋳物師・山田七郎左衛門(その八)
(広報もりまち令和6年7月号「森町の歴史・第七話」からのつづき)
戦国時代に徳川家康の戦に従軍して大筒(おおづつ)(大砲)などを造り、武器製造職人として家康を支えた森の鋳物師(いもじ)山田七郎左衛門は、天正15年(1587)に家康から「駿遠両国鋳物師惣大工職(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」の朱印状を与えられ、駿河と遠江、二つの国における鋳物の製造と販売の惣大工職(監督者)を任されました。
大坂の陣(1614~1615)のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」の梵鐘(ぼんしょう)は、山田七郎左衛門の助言の下、弟の六郎左衛門が中心となって造り(詳細は第五話を参照)、大坂の陣が始まると彼らは徳川軍に従軍しました。山田兄弟ら鋳物師たちが鋳造した大筒は、難攻不落と言われた大坂城を攻め落とす際に重要な役割を果たしました。
家康が大坂の陣で豊臣家を滅ぼし天下を統一すると、鋳物師たちは武器を造る必要がなくなり、鍋や釜、鐘、双盤などが主力製品になりました。江戸時代終わりまで、駿遠両国で鋳物の製造と販売を行う際は山田七郎左衛門家の許可が必要でした。しかしながら明治時代になると家康の朱印状は効力を失い、山田家は新たな道を模索します。明治から大正にかけて活躍した山田信介は、ドイツへ留学して西洋式の建築板金を学び、帰国後、官庁施設の建設に数多く関わり東宮御所(迎賓館赤坂離宮)等の屋根を手掛けました。つづく。
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