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森町の歴史~遠州の小京都ばなし~ 教育委員会社会教育課

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静岡県森町

■第十話 日本近代建築板金の泰斗・山田信介(その一)
(広報もりまち令和6年11月号「森町の歴史・第9話」からのつづき)
第1話から第9話まで、「徳川家康ゆかりの鋳物師(いもじ)・山田七郎左衛門」と題して、戦国時代に徳川家康から「駿遠両国鋳物師惣大工職(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」の朱印状を授かって御用武器職人を務め、江戸時代終わりまで遠江と駿河の鋳物の製造と販売を取り仕切った、森町村の山田七郎左衛門家について述べてきました。森町と金属加工(鍛冶と鋳造)の歴史は切っても切れない関係にありました。今回の第10話からは、明治から大正時代にかけて東京や京都、大阪などで活躍した、日本近代建築板金の泰斗である山田信介についてのお話です。
山田家の当主は代々七郎左衛門を名乗りました。江戸時代後期の文化・文政(1804~1830)の頃に当主だった七郎左衛門は、曲亭馬琴(戯作者(げさくしゃ))の紀行文『羇旅漫録(きりょまんろく)』において「遠州第一の好事家也」と評された掛川下俣の庄屋大庭代助の弟・周蔵で、32歳のときに山田家の養子となりました。彼は、遠州地方で最も大きいといわれる龍禅寺(浜松市)の梵鐘(ぼんしょう)を手掛けるなど鋳物師として活躍しただけでなく、大須賀鬼卵(きらん)(浮世絵師、戯作者(げさくしゃ))の紳士録『東海道人物志』に名を連ねる文人としても広く知られていました。この山田七郎左衛門(周蔵)の曾(ひ)孫が、山田信介です。
明治維新を迎えると、徳川家からの庇(ひ)護がなくなった山田家は新たな道を模索します。幕末の文久3年(1863)9月23日に山田家の長男として生まれた山田信介は、明治15年(1882)に東京職工学校(後の東京工業大学で、今の東京科学大学)の一期生となりました。
つづく。
参考:松本茂「四天王寺頌徳鐘と山田信介」『遠江』第42号(2019).

問合せ:教育委員会社会教育課文化振興係
【電話】85-1114

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