教育委員会社会教育課
■第十一話 日本近代建築板金の泰斗・山田信介(その二)
(広報もりまち令和7年1月号「森町の歴史・第10話」からのつづき)
前回の第10話からの続きで、明治から大正時代にかけて、日本の名だたる西洋建築(迎賓館赤坂離宮、日本銀行本店本館、旧帝国京都博物館等)の板金工事の中心人物として活躍した山田信介(1863~1935年)についてのお話です。
山田信介は、幕末の文久3年(1863)9月に森町村の山田七郎左衛門家に生まれました。山田家は、徳川家康の大筒等を鋳造する御用鋳物師(いもじ)を務めて以来、遠江と駿河両国の鋳物師を支配し、江戸時代終わりまで鋳物の製造と販売を代々取り仕切っていました。
明治15年(1882)、山田信介は二十歳の時に上京し、後の東京工業大学で現在の東京科学大学の前身である、浅草蔵前の東京職工学校の一期生となりました。明治19年(1886)7月に機械科を同期10名と共に卒業すると、校長の推薦によりベックマン貸費生に選ばれ、同年8月、建築板金を学ぶためにドイツのベルリンへ留学しました。
ヴィルヘルム・ベックマンは、時の外務大臣井上馨(かおる)が西洋建築による官庁集中計画のために招聘(へい)したドイツ人建築家で、明治19年に来日しました。日本の現状を見たベックマンは、技師職工育成が急務であると井上に進言しました。これを受けて政府はドイツに20名を派遣することとし、その中の6名については、留学費用をベックマンが立て替えることになりました。これがベックマン貸費生です。東京職工学校からは4名が選ばれました。つづく。
参考:松本茂「四天王寺頌徳鐘と山田信介」『遠江』第42号(2019).
問合せ:教育委員会社会教育課文化振興係
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