〔現役最年長の棋士として通算800勝の快挙〕
焼津市出身で将棋の現役最年長棋士(今年3月時点)の青野(あおの)照市(てるいち)九段が、今年2月、現役最年長棋士(71歳)として公式戦通算800勝を達成し「将棋栄誉敢闘賞」を受賞されました。
青野九段は21歳でプロデビュー。50年に渡る長き棋士人生において輝かしい成績を残されています。
受賞を記念し、青野九段にこれまでの棋士人生を振り返る特別インタビューを行いました。
○profile
青野照市(あおのてるいち)
焼津市出身(焼津南小・焼津中)。中学卒業後に上京し、棋士養成機関である「奨励会」に入会。1974年(21歳)にプロ棋士となる。同年の新人王で棋戦初優勝を飾り、1989年(36歳)で王座戦でタイトル戦初出場を果たす。2024年2月(71歳)、「通算800勝」を達成(史上26人目、71歳での到達は最年長)。将棋界で一流棋士の証しとされる「将棋栄誉敢闘賞」を受賞。順位戦A級に通算11期在籍。日本将棋連盟では理事、常務理事、専務理事を歴任
・将棋との出会いは?
将棋好きの祖父の影響で、ルールは幼少の頃から知っていましたが、遊びで指していただけでした。将棋に夢中になり始めたのは小学6年生になってから。学校帰りに本屋に行き、将棋の本を読んだら面白くて、立ち読みで覚えたんですよ。この頃から、週末は将棋の焼津支部道場に通うようになり、向坂(むこうざか)さんという方に連れて行ってもらった金谷の大会で、初めて師匠となる広津(ひろつ)八段(当時)とお会いしました。
本気でプロを目指すと決めた時期は、他の棋士に比べ非常に遅かったです。今振り返ると恐ろしいですが、当時は全国大会などもなく、井の中の蛙でした。本来はプロを目指すレベルではなかったと思いますが、中学3年の秋にプロになりたいと決め、長谷川(はせがわ)焼津支部長と一緒に師匠のところへ弟子入りをお願いに行くと、「進学か将棋かどちらかにしなさい」と言われ、驚いたものの即座に東京に上京し将棋に専念することを決意しました。
今思えば、背水の陣としたことが良かったのかもしれません。
・印象に残っている対局は?
大舞台での対局では、36歳の時に王座戦5番勝負で中原(なかはら)誠(まこと)王座を相手に2勝1敗とし、あと1勝というところでタイトルを逃したことが印象に残っています。
・思い出深い出来事は?
33歳の時、順位戦A級(解説1)からB級1組落ちましたが、その時は1年ですぐA級に復帰できました。その後またB級1組に落ちた時、自分でも第一線で活躍するのはもう無理だと思い、伊東に住み、そこからは執筆や将棋の普及活動にも力を入れるようになりました。そんな期間が約10年あった後に、47歳でA級に再度返り咲いたことが、将棋人生を振り返り一番感慨深い出来事です(解説2)。
・「現役通算800勝」と「50年ものプロ人生」を振り返っての感想は?
長く棋士を続けていると負けることも多くなります。負けるのは本当に辛いので、正直に言うと現役を早く辞めたいと思うこともありました。
それでも、自分自身の目標として、「通算800勝」と「現役50年」を掲げ、最後の最後までやってみようと頑張ってきました。本当に才能がある方は1,000勝を超えていらっしゃいますが、私の世代で800勝を超えた方は少ないのではないかと思います。現役50年はもっと少ないです。何とかこの2つの目標が達成でき本当にありがたいです。
プロとしては将棋を始めるスタートが遅く、才能にも恵まれませんでしたが、あきらめが悪かったことと、帰る道がなかったことが、結果として良かったかもしれません。才能がなくてもこのくらいまではできるということが示せたのではないかと嬉しく思います。
・座右の銘は?
最近は「どこまで行くかは才能の差、いつまでもつかは修行の差」を座右の銘にしています。タイトルを取れなかった悔しさもありますが、タイトルを獲得しても長く指せない方もいます。どんなことでも、長く続けるには、修行や努力で何とかなるということを心に刻んでいます。
・引退後の活動は?
将棋のタイトル戦の誘致など、将棋を通して地元に貢献できればと思っています。
特に子どもたちに将棋の面白さや魅力を伝えていく普及活動に努めていきたいです。
・焼津市民に一言お願いします
焼津は私の将棋の原点です。多くの皆さまに応援していただき、ここまでこられました。本当にありがとうございます。
○用語解説
(解説1)タイトル戦の一つである「名人戦」の予選にあたる。A級は順位戦の最高ランクで、A級の優勝者が名人への挑戦者となる。
(解説2)羽生(はぶ)善治(よしはる)氏などの若い世代の棋士たちがA級の大半を占める中での活躍は「中年の星」として話題となった。
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