■「家康と藤枝宿白子町(しろこちょう)の始まり」
徳川家康は、白子町(現在の白子名店街)の開設に深く関与しています。本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺害されたとき、堺(大阪府堺市)を見物していた家康一行は、明智の追手から逃れるため、急遽、本国三河への帰国を決め、伊賀越えをして伊勢国白子(三重県鈴鹿市)にたどり着き、その後岡崎城へ無事帰還しました。このとき、白子の住民・小川孫三が追手から逃れる家康を麦わらの中に隠したとも、白子湊(みなと)を出航する船を手配したともいわれ、家康の脱出劇を手助けしました。4年後、孫三は家康を頼って駿河に下(くだ)ってきました。家康は孫三の恩に報いるため、1586年、藤枝宿の東側に新しく白子町の建設を認め、住民の諸役(税の一部)を免除する朱印状を交付しました。この朱印状が御墨付きとなり、税を優遇された白子町は商工業が発展して栄えました。この背景には、他国から商工業者を招いて、武田との田中城合戦で疲弊した藤枝宿を復興しようとする家康の思惑があったと考えられます。
小川孫三宛て徳川家康朱印状(小川家所蔵)
6月3日開幕の博物館特別展
「徳川家康と田中城」で公開
問合せ:文化財課
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