■家康の大井川渡河ルートと茶釜(ちゃがま)
30代の家康が田中城攻めのため遠州から大井川を渡るとき、江戸時代の公認川越しルートだった東海道島田宿~金谷宿間ではなく、8キロほど下流の色尾越えを使いました。これは、西岸の初倉地区(島田市)と東岸の源助・善左衛門(藤枝市)を渡河するルートです。渡河した徳川軍は、上青島の瀬戸や二ツ山《正泉寺山と藤五郎山(消滅)》に陣取り、田中城へと出撃しました。旅人に「瀬戸の染飯」を売っていた東海道に面した瀬戸町では、徳川軍の陣場御用を勤めた功績により36軒の屋敷が諸役(税)免除とされました。家康が雨の中、瀬戸町を夜間通行した際、家々が行灯(あんどん)を灯したことから、別称「あんどん町」と言われるようになったといいます。
家康が源助村を通りかかった折、新田の開発者である内藤源助の家に立ち寄りました。源助が家康に茶を振る舞った際に使用された茶釜は、「分福(ぶんぶく)茶釜」の愛称で内藤家の家宝として大切に受け継がれてきました。家康が、道すがら土地の有力者の宅に気軽に立ち寄り、交流したことを示す貴重な証拠資料です。
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