■橘逸勢(たちばなのはやなり)供養塔(上山梨)
橘逸勢(842年没)は、平安時代初期の貴族で、弘法大師、嵯峨天皇とならび日本三筆の1人に数えられた書家です。その橘逸勢が、現在の袋井市内で亡くなった可能性があると言われています。
承和の変(842年)で謀反を起こしたとして京都から伊豆に流されましが、途中、病に倒れ遠江の「板築(ほうづき)駅」というところで亡くなりました。板築駅の位置は諸説あり、現在の袋井市上山梨と浜松市浜名区三ケ日町のいずれかと言われておりますが、確証に至っていません。木簡や墨書土器など正確な位置を裏付ける資料の発見が待たれています。
本紙20ページ掲載の写真は、昭和37年頃、上山梨の用福寺の境内で撮影された「橘逸勢供養塔」です。写真を見ると、供養塔の後に墨書で「橘逸勢公の墓」と書かれた木札が立っています。
この供養塔は、「山梨様」の愛称で親しまれ、もともと上山梨新町の個人のお宅にあったものが用福寺に移設されました。やがて、昭和62年5月11日に地元住民の厚い信仰の証として市指定文化財(有形民俗文化財)となり、今でも大切にされています。
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