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【特集】倉吉打吹まつりができるまで(1)

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鳥取県倉吉市

毎年倉吉の夏を盛り上げる「倉吉打吹まつり」。
第1回の開催から、多くの人の協力によって成り立っています。
倉吉打吹まつりの歴史や、今年の楽しみ方をまとめました。

■倉吉打吹まつりの歴史
「倉吉打吹まつり」の歴史は、昭和29(1954)年の市制1周年を記念する納涼花火大会からはじまりました。倉吉打吹まつりが今の形になった理由や、それぞれの催しのルーツをたどります。

倉吉打吹まつりでは、みつぼし踊り大会、花火大会などさまざまな催しがあります。倉吉打吹まつりが本格的にスタートする以前は、これらは別々に開催されていました。

◆花火大会
夏の風物詩といえば花火大会。現在の倉吉打吹まつりのフィナーレを彩る花火のルーツは、昭和29年に市制1周年を記念して小鴨橋付近で開催された納涼花火大会です。当時発行された『市報くらよし』第11号(昭和29年8月21日発行)には、「この花火大会は今後毎年の行事となりやがては倉吉名物の一つに数えられることでしよう」と書かれています。
その後、夏の恒例行事となった花火大会は会場に向かう臨時バスや汽車が出るほどの人気がありました。開催時の人出は推定で「五万をこえる」(『市報くらよし』第42号/昭和30(1955)年9月1日発行)と書かれています。当時の市の人口は5万2382人(昭和30年10月実施国勢調査の速報値)であるため、市内だけではなく市外からも多くの人が花火を見に来たことが伺えます。

▽花火大会のようすを伝える当時の市報
(『市報くらよし』第11号/昭和29年8月21日発行)
※詳細は、本紙P.2をご覧ください。

◆みつぼし踊り
「♪踊りなされよみつぼし踊り踊りでこの身が果てるまで」
倉吉打吹まつり1日目のラストを飾る「みつぼし踊り大会」。
現在、倉吉打吹まつりで披露される行進型のみつぼし踊りの歴史は、市内の各地に伝わっていた踊りが「みつぼし盆唄」としてレコード化され、発表会が行われた昭和40(1965)年から始まりました。
2年後の昭和42(1967)年8月には「第1回倉吉みつぼし踊り市民大会」が開催。10人以上を1チームとし、他の市町村からの参加も受け付けていました。
昭和51(1976)年には、花火大会とみつぼし踊り市民大会が初めて同日に行われました。

▽「第1回みつぼし踊り市民大会」の開催を知らせる記事
(『市報くらよし』第373号/昭和42(1967)年8月1日発行)
※詳細は、本紙P.3をご覧ください。

◆「倉吉打吹まつり」のはじまり
市報に初めて「倉吉打吹まつり」の文字が登場するのは、昭和52(1977)年です。
「これまでの夏まつりは、みつぼし踊り大会を中心として、花火大会、ちびっ子広場などの行事が、一応同時期に開催されていましたが、これらの行事の主催団体は別々であり、とりくみもそれぞれちがったかたちとなっていました。(中略)
そこで、市・商工会議所などが一体となり、倉吉夏まつり振興協議会を結成し、実行委員会を組織して実現したのが、この第一回倉吉打吹まつりです。」(『市報くらよし』昭和52年7月15日号より抜粋)
「倉吉打吹まつり」の名称は市民の皆さんの応募の中から選ばれました。
第1回倉吉打吹まつりではさまざまな催しが行われました。現在でも受け継がれているみつぼし踊り大会や花火大会をはじめ、仮装行列やトランペット鼓隊(こたい)の演奏、ボーイスカウトの市中行進など。また協賛行事として、土曜夜市や椿の平(なる)でのコンサートも開催されました。
その後、1日のみの開催(昭和59、60年)、開催日をお盆に変更(昭和61年)、津島牛鬼の参加(平成10年)、飛天WASSO(ワッソ)のスタート(平成12年)、新型コロナウイルス感染拡大による開催中止(令和2、3年)などを経て、今年も盛大に「第46回倉吉打吹まつり」が開催されます。

▽「第1回倉吉打吹まつり」の開催を知らせる記事。この年は金曜・土曜の2日間で開催されました
(『市報くらよし』第624号/昭和52(1977)年7月15日発行)
※詳細は、本紙P.3をご覧ください。

問合せ:倉吉打吹まつり実行委員会事務局(地域づくり支援課内)
【電話】22-8159
【FAX】22-8230

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