文字サイズ
自治体の皆さまへ

町長室から NO.73

7/33

鳥取県南部町

法勝寺から高姫へ向かう広域農道、その法勝寺側の谷は「新宮谷」と呼ばれています。経久寺は、この新宮谷の入り口にある臨済宗のお寺です。戦国時代、中国地方に一大勢力を誇った尼子氏。その中でも尼子氏隆盛の礎を築いたのは尼子経久だといわれています。
法勝寺にお住まいの郷土史家、堤一眞さんに経久寺と尼子経久の関係についてお話を伺いました。まずご案内いただいたのは、お寺の裏山で木立の中にたたずむ石厨子(いしずし)です。その中に二つの宝篋印塔(ほうきょういんとう)が祀ってあります。右が高さ95センチで、経久の父清定。左が高さ90センチのもので、経久を祀ったものだと伺いました。なぜ、この地に尼子氏に関係するお寺があるのかが不思議なところです。
堤さんによれば、「経久が亡くなったのち、経久の夫人が内持仏を奉じ、この地に庵をむすび供養したのが始まりです。そして観音堂は、お姫様が観音像を奉じたと伝わっています。以来、経久の守本尊として常に護持した霊仏観音は秘仏として、何人も拝めてはならぬとされ、今も固く守られています。」と伺いました。現在も檀家のみなさんは観音まつりを続けておられるそうです。経久は天文10(1541)年11月13日富田城にて84歳の高齢で亡くなりましたが、
経久寺には元亀元(1570)年経久の位牌が安置されています。この年は、経久の三男国久の孫、勝久が尼子再興を図って毛利打倒のために織田信長に従うことを決した時でした。しかし、山中鹿介など忠臣の奮闘及ばず、天正6(1578)年、勝久は播州上月(こうづき)城で自刃(じじん)し尼子氏は滅亡します。
最後に堤さんは、「経久寺は遥か月山富田城を向いて建立されています。」と結ばれました。

南部町長 陶山清孝

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU