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境港史話『温故知新』(72)

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鳥取県境港市

■弓浜半島の農業の歴史について
今から50年ほど前、鳥取県の砂丘地(主なものは鳥取砂丘、弓浜半島、北条砂丘)の割合は、県土全体の約2.4%(約84平方キロメートル)を占めており、その内62%が耕地でした。郷土史研究家森納著「弓浜半島と夜見村」から、砂丘地である弓浜半島の農業の歴史についてご紹介します。
鳥取藩内における砂丘地の開拓の歴史は弓浜半島が最も古く、江戸初期の延宝から宝永年間(1673〜1710年)にかけて弓浜中部の耕地が開拓されました。当時の開拓の必要条件は、米による年貢を確保し、かつ、自給できることでした。そのため低湿地では水田開墾、その他は麦、粟、黍(きび)、稗(ひえ)、大根、里芋などの畑作用に充てたと考えられます。その畑作の中で時代が流れても移ろいなく作られたのは冬作の麦くらいで、夏作は綿、桑、甘藷(かんしょ)など、主となる作物は時代と共に移り変わりました。
1700年から1759年にかけて行われた米川の整備により綿の栽培が急激に発展し、江戸時代から明治20年頃まで綿作が熱心に行われました。米の数倍も価値がある時代もあったようで、最盛期には弓浜半島の全耕地の三分の一以上が綿作だったようです。しかし、明治29年の外国綿花輸入税の廃止により綿作は激減しました。
明治後期から大正にかけては、綿作に代わって桑の作付けによる養蚕業が発展します。弓浜半島では、第二次世界大戦に至るまでの間、養蚕業が産業の中心となり、当時鳥取県議会議員であり鳥取県養蚕組合長なども務めた永井貞録氏は、全国蚕糸会副総裁をされるほどでした。しかし、第二次世界大戦が始まると絹需要が減少し、食糧自給のために畑作の中心となる作物は甘藷、馬鈴薯、麦などに移行しました。
戦後、食糧事情が安定すると弓浜半島では白葱、かぶら、西瓜の栽培が盛んになり、さらに昭和20年代後半から煙草への転換作付がなされました。
日本最大の砂州である弓浜半島における農業は、「砂との闘いの記録」という著作が示すように砂丘地との闘いであり、また、時代の変遷との闘いの歴史でもあったようです。
参考:「弓浜半島と夜見村」など
編集:市史編さん室

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