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境港史話『温故知新』(79)境港と相撲

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鳥取県境港市

その昔、境港にも相撲に関わる人物がいました。
まず境港の力士について。「弓浜民談抄(きゅうひんみんだんしょう)」(佐々木謙著)の最終頁「式守勘太夫(しきもりかんだゆう)のこと」の中に「辰巳さんは私に境港市の大力士荒鹿(あらじか)の話もしてくれた。荒鹿幸寿の大きな碑は境の千坊(せんぼう)墓地の北側に堂々とあたりをへいげいして(睨み)立っていることは幼時から知っていた。」とあります。
この大力士荒鹿は、江戸時代の大大関(当時は大関が最高位なので現在の横綱)だったという説もあります。
※昭和50年代、日の出墓地の移転事業により、この碑は中野町の中央墓園に移っています。
そしてもう一つ、大相撲の行司である式守勘太夫の話。式守勘太夫とは、位の高い(三役格)行司で、昔、境港出身の江川鶴夫さんが第7代式守勘太夫を務められました。
また、その後援会長を当時の堀田石油(現「(株)ウミライ」)社長の堀田靖郎氏がされていました。
郷土史家の佐々木謙先生は昭和13年当時「境尋常高等小学校」の訓導(教諭)をされ「堀田社長はかわいい尋常一年生のとき私の組だった。」「江川鶴夫君(第7代式守勘太夫)や水木しげるさんも当時の小学校に在籍していた。」そうです。
ちなみに境港市史下巻掲載の江戸時代力士の概要については、「力の強い相撲取りは人気者だった。市内各所にある墓地の入口付近、わざと人目につきやすい所に力士の墓が建てられた。いずれも巨大な自然石を用いている。」とあります。
今も、市内各所に次の字が刻まれた墓石が残っています。
(1)「力岩弥四良(りきいわやしろう)」
旧境千坊跡(日の出広場東側)
(2)「剱野金三郎(つるぎのきんさぶろう)」
外江東墓地(旧山陰合同銀行西出張所西側墓地)
(3)「藤岸清波信士(ふじぎしせいはしんじ)」
中野町墓地(旧道沿い)
※力士名は「藤波六蔵」で、松平不昧公お抱え
(4)「黒金の記念碑」
渡町上網場墓地
※後年鳥取藩に召し抱えられる。
(5)「山陰力士荒鹿幸壽碑」
中央墓園(中野町)
編集:市史編さん室

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