■「寺島宗則 日本電気通信の父」
嘉永6年(1853)、ペリーは来航した際、幕府に「電信機」を献上します。
幕府は電信機の実用化に当たり、文久元年(1861)に遣欧使節団を派遣し調査を行いました。この時、使節団の随員として参加したのが寺島宗則でした。
この背景には安政2年(1855)、寺島が藩主斉彬の命により、鹿児島城内の本丸休息所と二の丸探勝園茶屋との間に電信線を架設して通信実用に成功した経験を買われたことがありました。
維新後は外交官として活躍する一方で、電信事業にも関わっていくことになります。明治元年12月、寺島の建議により、電信事業を国営で行うことが決定すると、寺島が任されることになります。
寺島はイギリスから技師を招聘し、東京-横浜間の電信線建設を着手します。東京側は築地居留地近くの税関内、横浜側は裁判所内にそれぞれ「伝信機役所」を設置します。距離約32km、電信柱593本。これを2か月ほどで開通させる突貫工事でした。寺島が電信線敷設を急いだ背景には、ヨーロッパ各国を見聞した経験を含め、また列強のアジア各国に対する植民地化の経緯を分析した結果、日本を列強から守るには武力だけではなく、自国の力で国内のインフラを整えていくことの重要性を痛感したようです。
電信建設工事の着手日が明治2年10月23日だったことから、この日が「電信電話記念日」と定められました。
記念館スタッフ 畠中 敬子
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