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薩摩藩英国留学生記念館「れいめいの風」

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鹿児島県いちき串木野市

■語学で支えた 堀孝之
通訳の堀孝之は、弘化元年(1844)長崎の通詞・堀達之助の次男として生まれました。当時、通詞は世襲制でオランダ語、中国語のみで英語の通詞はいませんでしたが、達之助の代から英語にも取り組むようになります。達之助は、ペリーの黒船襲来の主席通詞を務め、日本初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」も作成します。
安政6年(1859)、孝之10歳の頃、長崎海軍伝習所で学んでいた五代友厚と知り合います。生麦事件の翌年、薩英戦争へと発展し、イギリス軍が鹿児島湾に軍艦を率いてきた際には、五代と一緒に長崎から駆けつけます。
その2年後、高木政二という変名で薩摩藩英国留学生一行の通訳として渡英します。慶応2年(1866)3月に五代らと帰国しますが、同年12月には、薩摩藩がパリ万博に出展するため、通訳としてフランスに渡ります。
明治になり、五代は鉱山経営など様々な事業を興しますが、堀は五代に寄り添い支え続け、五代の死後は、五代の借金の整理、遺族の世話もしたそうです。一方、父・達之助が編纂した英和辞典を再版し、それまで英語の発音は日本語で表記していましたが、明治4年(1871)に出版した第4版では、初めてウエブスターの発音記号を採用します。この再版した、いわゆる「薩摩辞書」と呼ばれる辞書は、「大正増補和訳英辞林」といいます。
官界から度々誘われますが、「国力を伸ばすには、裾野である民間の力を強くすることが大事」と拒みました。孫には、「おじいちゃんは、町の学者だよ」と語っていたそうです。明治44年(1911)、67歳で亡くなります。堀は、維新の時代、外国との交渉などで、無くてはならない影の存在だったと言えます。
薩摩藩英国留学生記念館 スタッフ 峯元雅代

薩摩藩英国留学生記念館
【電話】35-1865

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