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薩摩藩英国留学生記念館「れいめいの風」

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鹿児島県いちき串木野市

■畠山義成 アメリカでの留学生活と岩倉使節団での活躍
明治5年2月(1872年3月)、アメリカに滞在していた畠山義成は語学力や海外での経験を買われ、三等書記官として岩倉使節団に加わり、『米欧回覧実記』を編纂したことで知られる久米邦武と共に岩倉大使に同行し、訪問先での通訳や取材、記録役を担いました。畠山は使節団のアメリカ最後の滞在地であるボストンで使節を代表してスピーチも行います。その後、横浜に戻るまで久米と二人三脚で取材を続けました。久米は畠山のことを『正直で真摯な学者』と語っています。
使節団合流前の畠山は、アメリカに留学してくる日本人が増えていたため、留学生たちの下宿先や個人教授の斡旋等の世話役を務め、後に東京帝国大学総長となった山川健次郎は、自伝の中で畠山がアメリカで親切に世話してくれたことを語っています。また、同じ薩摩藩英国留学生である松村淳蔵や熊本藩士の横井佐平太らのアナポリスへの入学承認の際も、日米間の政府の連絡の補佐の役目も務めたと言われています。そんな中、ヨーロッパの教育制度を視察中に帰国命令が下ると、ラトガース・グラマースクールのライリー校長は「役目が終わったら畠山をアメリカに戻してほしい」との手紙を日本の教育担当省庁宛てに書いています。
明治6年(1873年)、帰国した畠山は、短い期間ながらも文部卿であった木戸孝允の影響もあって、文部省の仕事を得ます。同年12月には開成学校校長に就任。相次いで発足した博物館、書籍館、植物園の館長も兼任し、日本の新たな教育システムの構築に尽力します。しかしながら、過労のため結核を患い、志半ば34歳の若さでこの世を去りました。

薩摩藩英国留学生記念館 スタッフ 畠中 敬子

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