■「村橋久成」“日本初の冷製ビール”への情熱
明治2年(1869年)、明治新政府は北方の防衛と近代産業の育成のため、「北海道開拓使」を設置します。英国留学から帰国した村橋久成は、戊辰戦争に従軍し、黒田清隆のもと函館戦争で活躍すると、そのまま開拓使に出仕します。村橋は、函館周辺の農業試験場の開設や屯田兵村の建設担当を経て、ビール製造担当に任命されます。
当初は開拓使事業を広く宣伝したいという黒田の思惑から、ビール醸造所は、東京青山の農業試験場に建設することで決定していました。しかしながら、村橋は「北海道の農業振興が目的で麦やホップを栽培し、それを原料にビールを造るのだから、最初から北海道に造るべきです。建設木材も豊富で冷涼な気候の北海道が冷製ビール醸造に適している」という稟議書に図面や建設見積を添えて提出します。閣議決定事項に異を称えることは異例で、失敗すれば全責任が自分にかかる、覚悟の行動でした。
村橋の情熱は認められ、東京から北海道へ建設変更が決定します。当館2階展示に村橋が稟議書に添えた「開拓使麦酒醸造所地絵図」があり、豊平川から切り出した氷で氷室を造り、ビール冷却に使ったことがわかります。村橋は輸入ワイン・輸入ビールの空き瓶を買い集め、栓はコルクで代用しました。そうして、“日本初の冷製ビール”が誕生します。この開拓使麦酒醸造所が、後のサッポロビールに繋がることから、村橋なくしてサッポロビールは語れないのです。
また、北極星がモチーフとなった開拓使の旗に記された赤い星は、開拓使ビールのラベルにも使われ、現在のサッポロビールのラベルにも引き継がれています。星のマークには、未開の地“北海道”を開拓した先人たちの熱い情熱とフロンティア精神が託されているのだと思います。
記念館スタッフ 南川 浩幸
薩摩藩英国留学生記念館
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