■「アメリカ永住の先駆者」長沢 鼎
渡英して2年が経った1867年の夏、藩からの送金も途絶え、これからの生き方を模索していた、畠山、松村、森、鮫島、吉田、そして長沢鼎の6名の留学生たちは、新しい可能性を求めて、宣教師トーマス・ハリスを頼ってアメリカに渡ります。
1868年、畠山、吉田、松村の三人がハリスの元を去り、次いで鮫島と森が帰国、残ったのは当時17歳の長沢鼎だけでした。長沢はただ一人、エリー湖畔にハリスが作った共同体で献身の生活を送っていましたが、共同体が分裂解散すると、ハリスと共に新天地を求めて、温暖な気候で肥沃な大地、カリフォルニアに移住を試みます。
事業経営にもすぐれた才能を持つハリスは、サンタローザにある「ファウンテングローブ」の土地を購入して「葡萄園」を開き、1882年、葡萄酒工場を経営に乗り出します。その後、1906年ハリスの死により、全財産を継承した長沢は40歳の時、さらに広大な葡萄園を開拓することに成功して「葡萄王」の異名を誇ると、製造された葡萄酒は、アメリカ、ヨーロッパはもとより日本にも多量に輸入されるようになります。そして施設の火災や禁酒法など度重なる試練を乗り越えると、在留邦人からはもちろん、多くのアメリカ人たちからも尊敬の念を得ました。
1934年(昭和9年)、病魔に冒され、ファウンテングローブの自宅で、波瀾にとんだ82歳の生涯を閉じます。幕末・明治・大正・昭和と約70年を海外で過ごした長沢は、英国留学時に藩主からもらった「長沢鼎」という変名を生涯名乗り、時に出る薩摩弁や立ち振る舞いからも、「薩摩」=「日本」=「武士」というものが、常に長沢の心の中に在り続けたのではないかと思われます。
記念館スタッフ 南川 浩幸
参考文献:犬塚孝明著「薩摩藩英国留学生」
薩摩藩英国留学生記念館
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