■「生き、努め、尽した」中村四郎の生涯
○中村四郎の一生
四郎は中村思無邪(しむや)の四男として母の実家の花岡で生まれました。そこで100日あまりを過ごした後、父の思無邪の待つ鹿屋村上谷(現在:鹿屋市上谷)に移り、明治43年3月に男子尋常高等小学校(現在:鹿屋市立鹿屋小学校)を卒業するまで、少年期の14年間を同地で過ごしました。中村四郎のふるさとは鹿屋市と言えますが、彼自身は、あくまでも垂水市新城の出身であることにこだわり続けました。
中村四郎は鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校を経て、大正7年に東大法科政治学科へ入学します。在学中に高等文官試験に合格し、大正10年に内務省に入りました。
官界では、徳島県の官選知事、宮内省の初代警衛局長、主馬頭(しゅめとう)などの要職を歴任しました。
戦後は民間に転じ、(株)三愛顧問、(株)三愛石油常任監査役といった要職を歴任しました。
彼が天命としたのは、財団法人鹿児島奨学会の理事長の仕事で、郷土の明日を担う若き人材の育成に自らの全てを捧げました。
各界の名士を、奨学会の学生寮である同学舎に招いて舎生を対象とする講演会を開きました。講師は、金田一京助博士や沢田美貴女史、沢田廉三国連大使等多岐に亘ります。
昭和30年代は技術革新の時代で、技術革新の先端を行く大工場の見学会も実施しました。また、十数名の有志と語らい、元老牧野伸顕氏、元首相吉田茂氏、石坂泰三氏等の訪問も試みました。こうした人々との謦咳に接することは、必ずその人の人生にプラスすると考えたからです。
昭和40年代から高度経済発展の波が押し寄せ、昭和47年には、東京都駒込にある鹿児島奨学会同学舎の隣接地に高層マンションが建てられる等、学生寮としての環境が悪化しました。中村四郎はこの状況を打破するため、さまざまな検討を経て、日野市に郊外移転を決定し、昭和55年に竣工しました。
中村四郎の一生は「生き、努め、尽した」という三つの言葉に要約することができるかもしれません。中村四郎は平成元年2月3日、93歳の生涯を終えました。
貞子夫人との間に子供がいなかったため、遺書はありませんでしたが、生前の意志により、垂水市に1億円、鹿児島奨学会に3億円が寄贈されました。垂水市はこれに応え、名誉市民の称号を贈り、基金の一部を活用して図書館を建設しました。残された人々が在りし日を偲び、平成4年「中村四郎伝記」を刊行しました。
▽参考資料
『中村四郎』(平成四年二月三日発行)
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