■島津以久(ゆきひさ)公 佐土原入城420年
○以久公と佐土原と垂水
垂水島津家2代以久が徳川家康公より日州(宮崎)佐土原藩3万石を拝領して、今年で420年になります。平成6年の入城390年から10年毎に佐土原町で盛大なイベントが開催されており、イベントに先がけ実行委員会の方々が垂水市を表敬訪問され交流会が行われています。
以久公は1550年垂水島津家初代忠将の嫡男として生まれました。父の忠将が福山廻りの戦いで肝付氏の矢に討たれ、12才で2代目を継ぎました。秀吉による文禄の役、慶長の役にも島津宗家第17代義弘に従い出征しました。1600年の関ヶ原の戦いで義弘の身代わりとなって討死した豊久(義弘の甥)に代わり佐土原を治め、明治の初めまで続きました。
※以久の読み方は、もちひさ等、諸説あります。
○子孫とともに交流
垂水資料集(六)の文中に次のような記載があります。
『伝に曰く、以久生るる時に当て、白絹の幡一流、産屋之棟上に懸る。忠将以為らく、諏訪大明神の化現なりと。即ち池田備後をして、鹿児島に行て、諏訪神社に告げしむ。神主則ち備後と祠を開き見るに、八幡の幡一流を失す。神主以て奇なりと為す。備後帰て忠将に告ぐ。忠将厚く神威を感ず。則ち此幡を崇めて、神躰と為し、諏訪の神社を清水城内に造立す』
大まかな意味は次のとおりです。
『以久公が生まれた際、建物に白い絹ののぼりが現れました。父の忠将公は、こののぼりは、諏訪大明神の化身に違いないと思い、家臣の池田備後を鹿児島の諏訪神社へ報告に向かわせました。神主と祠を開くとそこにあったのぼりがなくなる不思議な出来事が起こりました。その後、忠将公は白い絹ののぼりをご神体とし城内に諏訪神社を建立しました』
今年は、2月5日、小雨降る中10人の関係者の方々が佐土原から来られ、墓参り、神事、交流会が行われました。先ほどの文中に出てきた池田備後の子孫池田彬氏も岡山からかけつけてくださり、また、当日島津墓地にて神事を執り行って下さった川上雅樹氏の祖先である初代川上忠寛公は、1600年に以久の孫、久信の奥方を佐土原に迎えにいった家老であり、島津家の礎を築いたひとりです。現在も子孫の方々ともに交流が続いています。
▽参考資料
『垂水市史料集(六)』(昭和60年3月発行)
発行者:垂水市教育委員会
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