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たるみず歴史・文化散歩 第56回

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鹿児島県 垂水市

■垂水島津家と殿加神社
○垂水島津家との繋がり
島津家の一門四家(鹿児島・垂水・加治木・今泉)である、垂水家の初代当主、島津忠将公は、日新斎忠良公の次男で、永正17(1520)年に誕生しました。兄である島津貴久公は、島津本家15代当主で、姶良地区の要である霧島市の清水城城主で周辺を制圧し、「姫路・松永・上井・浜の市・小村・湊・廻・市成・恒吉」を与えられています。
忠将公は、当時、大隅の肝付氏と日向の伊東氏との戦いの中、鹿児島から宮崎の日向につながる日向街道沿(福山の牧ノ原沿い)に陣取っていました。代々肝属郡を治める豪族である肝付兼続公(忠将公の姉御南の夫)に、福山(霧島市)にあった廻城を奪い取られたため、島津方が怒り奪回のため本隊が出陣しました。忠将公は、本隊の到着を待たず、廻城奪還のため、家老の町田加賀守忠林の危険との阻止を振り切って、わずか数十人で出陣しました。
乱戦の中、一度は囲みを破ったものの、廻城近くで肝付方の伏兵により、討ち死にしました。忠将公の死によって、島津方が奮い立ち、廻城は奪回されました。
後に、垂水島津家二代の以久公が、廻城の戦死された所に天正3(1575)年に供養塔を建立しました。現在は、垂水島津家七代の久治公が延宝7(1679)年に再建した供養塔が残されています。
忠将公は、両親の教育によって神・儒教・仏教の三教を体得し、特に孝行を奨励し、馬頭観音を厚く信仰しました。

○殿加神社
垂水市田神163に鎮座する殿加神社は、忠将公・菅原道真公が御祭神として祀られています。
垂水島津家四代の久信公の時、同神社が鹿屋から垂水に移封され、「殿加大明神」として現在の場所に創建されました。この時、境内に忠将公の愛馬の白馬を埋葬し、馬頭観音も建立されました。
同神社のすぐ近くに、垂水小学校があります。この地には昔、垂水島津家二万石の平城がありました。
忠将公の墓は、霧島市の清水に安置されていましたが、太平洋戦争の空襲で破壊され、「忠将公・妻の南君・孫の彰久公」と墓標が立っています。
昭和60(1985)年の再建にあたり、当地が300年にわたり垂水文教の中心であったことに鑑み、学問の神様が祀られている、大宰府天満宮(福岡)の御祭神「菅原道真公」の神霊を合祀して、今日にいたります。

▽参考資料
さつま人国誌(著:桐野作人)
ふるさとのお社鹿児島県神社誌(著:鹿児島神道青年会) 等

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