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町誌編さん室の島のむんがたり

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鹿児島県徳之島町

■〔レポート〕琉球沖縄歴史学会が開催されました
9月14日、「琉球沖縄およびその関連地域の歴史を研究する関連諸学問領域の発展」を目的に設立された琉球沖縄歴史学会の大会が徳之島で開催される予定でした。しかし台風13号が接近。そのため、オンライン開催となりました。大会のテーマは「琉球沖縄史と奄美諸島史―『徳之島町史』『和泊町の歩み』刊行から―」。近年刊行されたばかりの『徳之島町史』・『和泊町の歩み』を題材に、新しい奄美諸島史の現在地と今後の展望を語り合う場として設定されました。
『徳之島町史』からは、近世という言葉で時代区分される薩摩藩統治下の徳之島について報告しました。その特徴の一つは、薩摩藩との関係だけに収まらない、海を介して琉球や東アジアとつながっていた徳之島の側面を描いたことです。例えば、明治4年(1871年)、徳之島の医師「竹徳」が医療技術の修得のため琉球に遊学したという事例があります。しかも、竹徳が入門を認められたのは琉球国王の治療をも担う「御医者(おいしゃ)」のもとでした。これまで、琉球と中国福建とのあいだに医療技術の伝播があったことが明らかにされていますが、徳之島を含む奄美諸島の医師養成のプロセスも、琉球・中国福建・鹿児島という「東アジア地域」という視点でとらえる必要があります。
『和泊町の歩み』では、「担晋(たんしん)」という沖永良部島の島役人にスポットがあてられています。彼は1800年代前半に活躍した人物で、公務などで鹿児島や琉球に渡った際、漢詩・和歌・琉歌などで現地の文化人たちと交流しています。その才能は鹿児島や琉球の文化人からも一目置かれたほどで、後年には「沖縄学の父」と言われる伊波普猷(いはふゆう)からも高く評価されています。
今回ご紹介できたのは少しの事例ですが、両書がともに目指したのは、新しい徳之島・沖永良部島の歴史叙述を提示することです。その試みを多くの皆さまと共有できるよう、これからの町誌編さん事業を設計していきたいと考えています。また、1980年代以降の考古学・歴史学上の新発見や研究の進展をふまえ、奄美諸島では「第3次自治体誌編さん時代」が訪れています。その取り組みからも目が離せません。
(町誌編さん室 竹原 祐樹)

問合せ:郷土資料館
【電話】0997-82-2908

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