■亀津の歴史散歩(中区)
前回(6月号)は亀津の北側から小学校まで紹介し、今回はその続きです。
明治時代、小学校から大瀬川に向かう東側には田んぼが広がっていました。この一帯をノーシュンバリ(苗代田(なわしろた)のある集落)と言いますが、今とはずいぶん違う風景が広がっていたようです。大瀬川と田んぼの間は高く土手状に盛り上がっていて川の氾濫を防いできました。土手には第2大瀬橋が架かっていますが、コンクリート製になったのは昭和39年3月で、それまでの木橋は洪水の度に流されたので、住民は川を渡るか遠回りしなければなりませんでした。
しかし、大瀬川は洪水も起こしますが、水量が豊富で涸(か)れることがありませんから、何千年も昔から亀津の人々の生活を支えてきました。他の集落では見られませんが、川の水は昭和30年代まで日々の生活や飲料水としても使われました。井戸水は臭いや塩分が強く飲料に適さなかったこともありますが、豊富な水量は人々の生活を十分に満たすものでした。
さて、大瀬橋から中区のほうを見ると美代願山(ミョウゴヤマ)が目につきます。この崖下からは縄文時代の貝塚や石器などが発見されており、数千年前はここが海岸線だったことがわかります。崖下にはクチンゴの小川が流れ、崖の中腹には家が建っています。昔は官有の建物がありました。1704年に亀津に観音堂(かんのんどう)が建てられましたが、長年場所は不明でした。近所の方の話では、この場所に寺があったと聞いているとのこと。観音堂はここに建っていたのかもしれません。
この崖下の川沿い一帯を峯窪(みねくぼ)といい、かつては亀津の旧家がズラリと並んでいて、クチンゴの一番手前が古勝(こがち)家でした。少し川上に行くと今も古勝森(くがちむぃ)と呼ばれる小高い聖地がありますが、そこは古勝家の墓所になります。周囲の人たちからは火災予防の神様として拝まれています。今は大瀬川近くのクチンゴの小橋から古勝森に行くには、スーパー池山に出て迂回しなければなければなりませんが、昔は川沿いに行けました。
古勝森の近くには、今も立派な石垣で囲まれた屋敷が残っていますが、ここは昔篤(とく)家の敷地でした。隣の亀津保育園が安田家で、明治初めに郵便制度が始まったとき、3代続けて郵便局長を務め、自費で局舎を建てるなど初期の郵便事業を支えました。ここを下殿内(しもとのち)といい、北区の上殿内とともに琉球王の子孫になるようです。その左隣は堀家でした。昔は鹿児島から運んできた山川石がたくさん積んであったそうです。満潮時には、大瀬川から物資が搬入しやすかったのでしょう。なお、峯窪やその周辺の旧家からは、明治大正期に30名近い帝国大学出身者を輩出し、亀津は日本一の学士村と呼ばれました。(次回へ続く)
(町誌編さん室 米田博久)
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