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町誌編さん室の島のむんがたり

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鹿児島県徳之島町

■亀津の歴史散歩(1) ~北区を中心に~
今回は亀津の街の歴史散歩、まずは亀津北部からです。文化会館などの町施設が集まる一角には、亀津海岸埋立て事業完成の記念碑があります。昭和42年から14年間かけ、幅約200メートル、長さ約1500メートルにわたって埋立てられました。碑の後ろにあった大岩「軍艦石」は、昭和60年代に撤去。横の路地が不自然に曲がっているのは、この大岩があったためです。
ここから旧県道へ。ファミマ北店の横には、今も高い崖が旧県道に覆いかぶさるように迫り、かつては亀津、亀徳との境界域でした。ファミマやモリ自動車のあたりにも、ホソウマタの丘が迫っていましたが、海岸埋め立て用に採取されたことで宅地が広がりました。
そこから旧県道を南に進むとアンゴウ川が流れています。橋を渡ると右手はフナタイの崖。その北端は亀津の「拝み山」です。亀津に入る時は、この山に一礼するものだったそうです。拝み山に建っているのは秋葉(あきは)神社。祠の真後ろに崖葬墓(がいそうぼ)(崖の中腹の窪みに遺体を風葬する古い風習)があって、手を合わせると崖葬墓を拝む感じになります。拝み山の神様は、このお墓の主なのかもしれません。
徳之島高校に向かって少し歩くと、左右に広がるのは「フナタイ墓地」。江戸時代は県道下の墓地の3分の2ほどの広さで、当時としてはかなり大きなものでした。墓地横の崖の窪みには複数の崖葬墓が残っていて、今でも祀っている方がおられるようです。これらの風葬跡は墓地(土葬文化)ができる前までの葬制になります。
徳之島高校のある丘は「クランクシ」と言います。かつて丘の下に藩の御蔵(おくら)があり、その後ろの丘という意味です。畑が広がる場所でしたが、昭和16年に村立青年学校が建てられ、終戦間もない昭和21年に亀津高等女学校が開校。徳之島高校は女学校(2年後に実業学校)を引き継いで開校しました。学校前の旧県道は大正時代に入って開通した道路で、それまで道らしい道はありませんでした。
坂を下りきって右に曲がると亀津小学校の路地。曲がり角一帯は「上の殿内(とのち)」と呼ばれる場所で、琉球時代から亀津を治める役人の家がありました。そのすぐ上にはNTTの社屋。ここが薩摩藩によって建てられた「安住寺(あんじゅうじ)」跡です。明治4年に徳之島初の学校(後の亀津小学校)がここに開校。亀津が「日本一の学士村」になる礎となりました。その後亀津小は明治21年に中区の旧代官所前に移転。さらに明治41年に龍野定一(たつのていいち)先生の生家周辺を買い取って現在地に移転しました。続きはまた次回。
(町誌編さん室 米田 博久)

問合せ:郷土資料館
【電話】0997-82-2908

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