■古文書からひも解く島の歴史~上国日記~
郷土資料館には、幕末から明治初めに島役人である与人(よひと)が記した上国日記を複数保管しています。それらの文書から、島役人が薩摩藩から派遣された代官などの役人の下でどのように行政運営をしていたか、鹿児島での人々との交流や暮らしぶりなどを伺い知ることができます。
○上国日記とは
江戸時代の徳之島は、東間切、面縄間切、西目間切の三つの「間切(まぎり)」に分けられ、現在の3町に近い行政区分がされていました。各間切内には二つの「噯(あつかい)」が置かれ、現在の集落に当たる複数の村を治めていました。この噯全域の行政を担っていた島役人が「与人(よひと)」です。
与人は、鹿児島や琉球などへ赴く業務も担っていましたが、薩摩藩の慶事のお祝いのために赴く際には「上国与人」と呼ばれ、その間に記したのが「上国日記」です。
○勇喜應(ゆきおう)上国日記
東間切の亀津噯の与人である勇喜應が、朝廷の正四位上に叙された鹿児島藩主島津斉興(なりおき)の慶事による御祝儀のために上国した、天保12年(1841年)4月から翌年1月までの記録です。
文書は7月23日付で、「調所笑左衛門様が(上方)から御下着(御帰り)になったので、例式にならって(上国に付き私共が鹿児島に)着いたお届けをどうするか指図してほしいと役人に申し出て置いたが、問屋を仲介役としてお届けは必要ない」との返事があった。それでも、「無事に着いたお祝いとして献上品を差し上げたいと申し上げたところ、それは差し支えないとのことなので、ご祝儀に伺うことにした」という内容です。翌日には、同様に上国していた喜界島の与人と話し合い、献上品として砂糖樽と御酒(焼酎)を上納したことが記されています。
与人にとって栄誉である上国という機会を生かし、藩主の命を受けて藩財政改革の先頭に立っていた調所笑左衛門(広郷)へ届け物をして面識を持つなど、勇喜應の政治家としての側面を伺い知ることができます。
上国日記からは、藩主への献上品はもちろん、藩内の実力者へ近づくための品を用意していたことが分かります。それは、島民にとっては例年の上納に付加される新たな負担となるものでした。その一方で、島が台風で大きな被害を受けたとの報を受け藩庁へ米を配当するよう願い出たことや、他島の与人との交流による情報収集に努めていたこと、同伴した子弟への教育の場を設けたことなどが記されており、当時の様子を知る上で貴重な資料と言えます。
郷土資料館長 遠藤 智
問合せ:郷土資料館
【電話】0997-82-2908
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