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いぶすきまるごと博物館 vol.205

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鹿児島県 指宿市

■新指定文化財「水迫の方柱板碑(ほうちゅういたび)(二基(にき))」
3月30日、「水迫の方柱板碑(二基)」が新たに市指定有形文化財に指定されました。「水迫の方柱板碑(二基)」は水迫墓地に所在する2基の板碑(※1)で、ちょうど400年前で江戸時代初期にあたる元和(げんな)9年(1623)に水迫村の人々が彼岸にあたって建立したものです。碑文には、次世代の安楽を念じて水迫村の久屋道昌(きゅうおくどうしょう)(※2)が経典を百万遍唱える功徳を積んだことや鏡妙如大姉(きょうみょうじょだいし)という功徳を積んだ女性が極楽浄土に行けるようにとの供養が記されています。江戸時代初期の地域社会における信仰をうかがうことのできる文化財です。
さらに重要であるのが、この板碑に「薩刕湯豊宿之郡(さっしゅうゆぶすきのこおり)水迫村」と指宿の地名が「湯豊宿」という漢字表記で記されていることです。「湯豊宿」と記された板碑はこれまでに市内で3つ見つかっており、いずれも市の指定文化財に指定されています。これら3つの板碑は戦国時代にあたる天文12年(1543)から天文16年(1547)までの間に建立されています。またこれらは、宮ヶ浜に所在する松尾城の城主である津曲兼任(つまがりかねとう)が建てたものや、かつて宮ヶ浜にあった長勝院(ちょうしょういん)という島津家にもゆかりのある寺の趾(あと)に残されたものなど、いわば統治者層により建立された板碑です。このため「湯豊宿」の地名表記は、津曲兼任が使用していた、期間が限られた一時的な表記と考えられてきました。
ところが「水迫の方柱板碑(二基)」が発見されたことで、「湯豊宿」という地名表記が「指宿」や「揖宿」という表記と並行して江戸時代初期まで使用されていたこと、さらに、統治者層だけでなく民衆にも知られていたことが明らかになりました。
「水迫の方柱板碑(二基)」は、他の3つの「湯豊宿」記銘板碑と併せて、指宿の地名の変遷を知る上でとても貴重な歴史資料なのです。
※1…板状に加工した石で作られた供養塔のこと。
※2…どのような人物かは不明だが、寺の僧侶もしくは出家した位の高い人物と考えられる。

問合せ:生涯学習課文化財係
【電話】23-5100

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