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シリーズ第5号 前略、市史編さん室より

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鹿児島県 指宿市

■桜島の大正噴火から今年で110年
大正3年(1914)1月12日10時過ぎ、桜島の山腹から相次いで噴煙が上がり次第に激しく噴火しました。18時29分に桜島沖を震源とするマグニチュード7.1の大地震が発生します。翌日22時頃まで激しい噴火活動が続き、死者・行方不明者は58人となりました。西からの風による降灰で大隅半島では農作物に大被害があり、降灰は東北地方でも観測されたと記録されています。約2万人の住民が移住を余儀なくされました。溶岩で桜島と大隅半島が陸続きとなり、国内では20世紀最大の噴火と言われます。

■当時の指宿を郷土資料から振り返る
その時の指宿市の様子は、魚見小学校の校長日誌や指宿図書館の指宿市高齢者教室寿大学『昔のはなし』(昭和51年発行)に書かれています。

■『昔のはなし』桜島噴火の記憶
大正3年1月12日。私どもが小学校尋常科6年の時、突然教室で「霧島が噴火だ」という声が聞こえてきました。しばらくすると、桜島が爆発したことがわかりました。なるほど、柳田小学校の2階から眺めると、はっきりと噴煙が高くあがっているのが見えました。
夕ご飯を終え、中座敷にいたら、大音響と同時にズシーンゆらゆらと家が揺れ、同時に部屋を飛び出しました。とても家の中にいれる状態ではありませんでした。ランプが大きく左右に揺れていました。しばらくすると津波が来る、早く山へ逃げよと、誰言うことなく風の如く伝わってきました。隣同士話し合って、どの家も父親だけが家に残ることになり、母はまずご飯炊きにかかりました。
津波とはどんなものか知らないけれども、生きた気持ちはなく、みんな着のみ着のまま、今の南指宿中学校の北側の狭い道を黙って、丘へと急ぎました。丘の上の畑で一晩明かしましたが、もちろん一睡もできませんでした。桜島の頂上は真っ赤、それに噴き上げる噴石と落ちてくる石とがぶつかりあって、火花を散らしていました。
翌日は、続々桜島の避難の人達が見えはじめ、私どもの学級にも転入の生徒が来ました。(一部省略)

当時の指宿市の様子が分かる貴重な記録です。新しい市史には市民の記憶や書き残された記録も紹介する予定です。

・皆さまのお話や自宅の古い物が大切な資料かもしれません。
提供いただける場合はご一報ください。

問合せ:市史編さん室市史編さん係
【電話】080-8210-1656

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