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ひおき歴史街道 No.34

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鹿児島県日置市

■続・下地中分(したじちゅうぶん)
日置北郷(ほくごう)・日置新御領(しんごりょう)(日置市日吉町)や伊作庄(いざくのしょう)(同市吹上町南部)の下地中分(したじちゅうぶん)は、鎌倉時代後期の元亨(げんこう)4年(1324)8月21日に領家方(りょうけがた)の「一乗院雑掌左衛門尉憲俊(いちじょういんざっしょうさえもんのじょう)」と地頭方の「大隅左京進(さきょうのしん)宗久代沙弥道慶(しゃみどうけい)」との和与(和解)により成立しました。道慶は、伊作氏2代宗久(むねひさ)の地頭代(じとうだい)(代官)とみられます。
この下地中分により日置北郷は南北に分けられ、北を領家分、南側を地頭分とされました。日置新御領も「八幡御前放生会(ほうじょうえ)馬場」を境に南を領家分、北を地頭分とし、伊作庄は「伊与倉(いよくら)川」(現在の伊作川)を境に北を領家分、南を地頭分としています。
領家・地頭双方は、和与状(和解の契約書)を取り交わして、これらを取り決めましたが、日置北郷の下地中分については、その境界が複雑だったことからか、中分線(境界線)を明確にするため、和与状と同様に領家・地頭双方が署名した絵図(地図)も作成されました。この時の絵図は現存しており、こうした下地中分絵図は全国的にも希少で、中世史研究の上で重要な史料となっています。

◇「薩摩国日置北郷下地中分絵図」(東京大学史料編纂所所蔵模写)
元亨4年(1324)、日置北郷の下地中分の際に描かれた絵図の模写。原本は、国の重要文化財に指定されている。中央に朱書で中分線が引かれ、左の帆湊(帆の港)から大川を東にさかのぼり、「ニカタノハシ(苦田橋)」で南に折れ、「カリヤサキ(仮屋崎)」東の道から「世戸」に抜け、「千手堂(せんじゅどう)」前の道を東に行き、「胡桃野(久留美野:くるみの)の大せタワ(大世多和)」からさらに東の伊集院との境に接する線で中分されている。中分線の両端には、線を挟んで「領家方」と「地頭方」とあり、「領家政所(まんどころ)」や「地頭所」なども描かれている。この中分線が、現在のどの位置に当たるかは今でも議論がある。

〔参考図書・史料〕
『鹿児島県史料』旧記雑録前編1・諸氏系譜3(鹿児島県)、『日吉町郷土史』上・下巻(旧日吉町)、『吹上郷土誌』通史編1・資料編(旧吹上町教育委員会)、三木靖氏「薩摩国伊作庄内日置北郷下地中分絵図の問題点」(『鹿児島短期大学研究紀要』7)、山口隼正氏「薩摩国日置北郷下地中分研究への一検討」(九州史学研究会『九州史学』109)、高島緑雄氏「薩摩国日置北郷下地中分の研究―中分線の現地比定・西海から下司薗まで―」(『明治大学人文科学研究所紀要』39)、黒田日出男氏「領主の争いと荘園の分割―薩摩国伊作庄日置北郷下地中分絵図―」(『中世荘園絵図の解釈学』東京大学出版会)、中村和美氏「鹿児島県における荘園遺跡研究の現状」(鹿児島県立埋蔵文化財センター研究紀要・年報『縄文の森から』2)、井上聡氏「薩摩国日置北郷中分絵図に関する現地調査と考察」(高橋敏子氏東京大学史料編纂所研究成果報告2011-6「画像解析とフィールドワークに基づく荘園絵図情報システムの構築」)

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