■わたしの戦争体験記 第3回(全5回)
~青年学校時代~
◆墜落した神風
ある日、日本の特攻機が三機編成で、古里あたりから海上すれすれの低空飛行で沖縄方面に向かっていました。すると三機とも目の前で上昇し、「どうしたんだろう?」と思っていたら、同時に高い所にいたグラマンが急降下し、特攻機を追いかけていました。
やがてグラマンが特攻機に追いつき、次々と攻撃。大きな水柱が上がって沈んでいきました。遠くから見ていた私は、どちらが日本の飛行機なのかは分からず、「やったー!日本が敵を撃ち落したぞー」と喜んでいたら、双眼鏡で見ていた兵隊が「撃ち落されたのは皆、日本の飛行機だ」と叫びました。日本は無敵だと教えられていて、神風特攻隊がやられるはずはないと信じていた私は、その時初めて大泣きしました。陸で墜落していたら助けることもできましたが、住民に被害が出るから海上で戦ったのでしょう。
◆標的になった下小
私は死ぬことは怖くなかったので、空襲があっても防空壕には行かず、木の上からいつも戦闘の様子を窺っていました。グラマンは、動きさえしなければ攻撃してくることはありません。
その日グラマンは、下平川国民学校をめがけて弾を撃ち込んでいました。当時の下小は周りがぐるりと石垣に囲まれており、海から眺めるとまるで要塞のように見えたのでしょう。よく攻撃の的にされていました。当時の校舎は屋根の茅を取り外してあり、骨組みだけの状態でした。
グラマンは越山あたりで旋回を繰り返し、行ったり来たりしながら攻撃を続けていました。やがて校舎の屋根から青い煙が上がるのが見えたので、私は急いで足を洗う池から水を汲んで屋根に登りました。他に煙が上がっていないか辺りを見廻していたところ、芦清良方面からグラマンが急接近してきました。低空飛行だと近付くまで音が聞こえず、気が付かなかったのです。過ぎ去ってからグワッと爆音が響きます。急いで2~3mある屋根の上から飛び降り、地面に伏せました。頭のすぐそばで、ピュシュピュシュと土煙が上がりました。降りた場所があと50cmほどずれていたら、直撃されていたことでしょう。それでも私は、「撃てるもんなら撃ってみろ!」と、全く怖くはありませんでした。
◆ロケット弾が校庭に
また、ある時はライトニングP―38という飛行機が、屋者の海岸から国民学校へ向けてロケット弾を発射し、弾が校庭に落ちて土煙が立ち込めて周りが見えなくなりました。
「8年間通った学校が、一瞬にして吹き飛んでしまったか…。」と、心配して見つめていたら、やがて煙が風に流されて、校舎が姿を現しました。その時は、心からホッとしたのを覚えています。夜になると、敵は照明弾を落とします。すると、周りが昼間のように明るくなり、民家や学校にめがけて爆弾を落としてきました。幸い、いつも学校には当たらずに近くの畑に落ちていました。「アメリカ人は目が青い。夜はあまり見えないはずだから爆弾は当たらないよ」と兵隊が言っていました。
《profile》
児玉 富杢(こだまとみもり)
昭和4年12月生まれ
(屋者字)
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