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奄美群島日本復帰70周年記念 ~連載:沖永良部島、日本復帰までの記録~

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鹿児島県知名町

■わたしの戦争体験記 第4回(全5回)
~青年学校時代~

◆襲撃をうけた子ども
その日も、グラマンの攻撃を木の上から見ていたら、「青年団、非常招集!」と集合がかかりました。今回の空襲で、3人の負傷者が出たのです。左手の指4本を失った人、破片が股に突き刺さった人、そして弾が肩を貫通した重症者がいました。指を失った人は、縦穴の防空壕に頭を抱えて隠れていたところを襲撃され、残り2人は家族で同じ壕に隠れていたそうです。入口が南向きであったため、畳を立て掛けて陰に隠れていたところ、入口から弾を撃ち込まれ貫通してしまったそうです。重症を負ったのは、まだ10歳ほどの子どもでした。3人とも竿津の医者に診てもらうため、担架で運ぶことになりました。

各々4人ずつで担架を担ぎ、余多川の天津橋を渡って医者のいる避難壕へ運びました。

◆越山の軍医
2人は診てもらえましたが、肩に傷を負った患者は傷が大きすぎてここでは手当できないと言われ、越山の軍医の所まで連れていくことになったのです。

竿津の坂を登っている途中、グラマンに見つかってしまいました。患者をそのまま道に置き、私たちは急いで崖から飛び降りて隠れました。グラマンが去ったあと、急いで戻ってみたら、幸い患者は無事でした。見つからないように今度は、ソテツや茅の中、畑の隅を通って越山に向かいました。

朝9時ごろ出発して、越山に到着したのは昼の2時。苦労して運んできたのに、軍医はどこから弾が貫通したのか確認すべく傷口をピンセットでつつくだけ。麻酔なんてないので、患者は痛がって激しく泣いていました。ヨードチンキを塗り包帯を巻いて、治療は終了。「もう帰りなさい」と言われ、来た道を引き返しました。救護班にいた姉からのちに聞いた話では、どうやら軍医はもう助からないと思ったらしく、ほとんど治療しなかったそうです。

患者を連れて帰りましたが、防空壕の中はじめじめと湿度が高く、傷口にウジ虫が湧き、ピンセットで何度取ってもなくなりません。ここでは助からないので、近くの一軒家に移動して治療を続けました。肉が腐り、骨をピンセットで引き抜きました。それでも、子どもだったので回復が早かったのでしょう。肉は無事に引っ付き、腕は曲がってしまいましたが、彼は元気になってその後も長生きしました。

◆B29の余多への空襲
またある時、B29がやって来ました。ジャンボ機のような大きさで、グラマンとは比べ物になりません。100m上空を飛行しており、近くに来るとその振動で胸が震え上がったほどです。岩の上から見ていたら、余多の上空にさしかかった時、その胴体から何か黒いものがヒュルヒュル落ちて来るのが見えました。その瞬間、爆風に吹き飛ばされ、大爆発が起こったのです。しばらく経って現場を見に行くと、現在の甲斐商店の辺りが大きな被害に遭い、幅6m深さ2mほどの穴が空き、道が吹き飛ばされ、その衝撃で周りの木々は枝だけに。どうやらそれは250キロ弾だったようで、その威力は凄まじいものでした。幸い、人への被害はありませんでした。

《profile》
児玉 富杢(こだまとみもり)
昭和4年12月生まれ
(屋者字)

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