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奄美群島日本復帰70周年記念 ~連載:沖永良部島、日本復帰までの記録~

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鹿児島県知名町

■わたしの戦争体験記 第5回(最終回)
~戦争末期から終戦~

◆下平川への艦砲射撃
いよいよ戦争も終盤になったある日。いつもは午前9時ごろから始まる空襲が、その日は7時ごろから始まりました。グラマンが南から北から東から西から、ひっきりなしにやって来ては執拗に攻撃を続けました。ところが11時ごろになると、スーッと終わったのです。「どうした? もう弾がなくなったのか?」皆が不思議に思い、漂う静けさがとても不気味でした。

しばらくすると、東の水平線に島のように大きな黒い影が現れたのです。「あれは何だ?」と驚いたのと同時に、ドロンドロン…ヒューンヒューン…ドカンドカーン! 爆音が響き、艦砲射撃が始まりました。軍艦だったのです。下平川国民学校へ向けて、激しく攻撃が続きました。

その様子を木の上からずっと見ていた私は、いよいよ敵が上陸してくるに違いないと感じました。急いで防空壕まで走り、中に隠れている皆に向かって、「いよいよ敵前上陸するぞ、絶対に壕から出るなよ。見つかったら火炎放射器で焼き殺されるぞ!」と伝えました。そして竹やりを持って海まで走り、石垣に身を隠して、敵の上陸を今か今かと待ち構えていました。

しばらくしたら攻撃が止まったので高台に登って見渡すと、そこにはもう軍艦の姿はありませんでした。大人たちから「あんたが竹やりを持っていたから、敵は怖がって逃げたんだろうね」と言われ、まだ子どもだった私は得意気になったのを覚えています。空襲はその後も続きましたが、艦砲射撃はこれが最後でした。

◆知らされなかった終戦
戦争が終わったことを、兵隊も私たちも誰も知りませんでした。前日までは、空襲が朝から晩までひっきりなしに続きました。しかし、翌日にはグラマンが低空飛行で全く攻撃することなく島の上を飛び去って行ったのです。その上を双発機とライトニングが、さらにその上をB29までも、本土へ向けて飛んで行きました。

「どうして弾を撃ってこないんだろう?」と不思議に思っていたら、兵隊が「昨日弾を撃ちすぎてなくなったんだろう」と言うので、飛んでいく敵の飛行機に向けて石を投げつけました。子どもながらに、思い切り憎しみを込めて。

それから一週間経ったでしょうか。兵隊から日本が無条件降伏し、戦争が終わったと知らされました。皆で泣きました。当時ラジオなんてなく、電話は役場と郵便局だけ。島民に入る情報は、いつもあとになってからでした。

◆戦後の作物泥棒
戦後最も困ったことは、食べ物でした。畑から芋や野菜が盗まれる被害があちこちで発生し、自警団が作られました。私は子どもながらにも、泥棒を見つけても逃してあげようと仲間と話していました。食べ物がなくて困っているのは皆同じ。ある月の晩、仲間たちと畑を見回りながら「最近この辺りに泥棒が出るらしいぞー」とわざと大声で話し、慌てて逃げていく泥棒を笑いながら見ていました。決して追いかけはしませんでした。

◆沖永良部から平和を
私は戦争を体験し、軍国主義教育の恐ろしさ、そして平和の尊さを、身をもって感じています。今を生きる友よ、平和の輪をここ沖永良部島から世界へ広げようではありませんか。それが私の最後の願いです。

《profile》
児玉 富杢(こだまとみもり)
昭和4年12月生まれ
(屋者字)

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