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奄美群島日本復帰70周年記念 ~連載:沖永良部島、日本復帰までの記録~

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鹿児島県知名町

令和5年は、奄美群島が日本に復帰して70年の節目の年です。
今回は、先月号で触れた「二島分離問題」について、当時を知る田中和夫さんに伺った話を紹介します。

■祖国復帰の原点。高校生から始まった復帰運動を誇りに思う。
Q:どのような高校生活でしたか
当時は高校卒業後、教員検定試験に合格すれば教員になれる時代であり、私もその道を求め、高校進学を決めました。入学当初(昭和26年)は知名・和泊両町に分かれて学校が存在していましたが、高校1年時の2学期から現在の沖高に統合されました。
重機のない時代、あの赤土をモッコで運んで整地作業を成し遂げた先人達の郷土愛・師弟への想いが〝教育の島〟の伝統を脈々と受け継いでいることに思いをいたし、敬服と感謝の念でいっぱいですね。

Q:「二島分離問題」を知った当時の取り組みは
生徒会を中心に校内での復帰に関する学習はもちろん、校外活動も盛んで、夜間に手分けして各集落を回り、意識の高揚に努めました。昼間はトラックに分乗し、〝復帰の歌〟を歌いながら全島を駆け巡りましたね。また、神社での復帰祈願も継続して行いました。
教員検定試験に向けて勉強に励みたかったのですが、大半を復帰運動に捧げた高校時代でしたね。その後、全島民、いや、全郡民の危機意識の高まりが大きなエネルギーとなり、昭和28年12月、私が高校3年の2学期末についに祖国復帰が現実のものとなりました。あれから70年ですか、早いものですね。当時の感激と住民結束のパワーを再考し、自分たちの町、島、国の更なる発展に寄与すべく、各自の立場で奮励努力していきたいものですね。

次号では、二島分離問題最中に沖永良部・与論で歌われていた〝復帰の歌〟を紹介します。

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