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奄美群島日本復帰70周年記念 ~連載:沖永良部島、日本復帰までの記録~

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鹿児島県知名町

令和5年は、奄美群島が日本に復帰して70年の節目の年です。
今回からは、新連載として戦時を体験された児玉富杢(とみもり)さん(昭和4年生・94歳)の体験をご紹介します。

■わたしの戦争体験記 第1回(全5回)
~尋常高等小学校時代(前半)~

◇着物で通った小学校
昭和11年に、下平川尋常高等小学校に入学しました。
当時は教科学習の他に、兵隊になる準備としての体力づくりが主でした。ハントウ棒といって、ガジュマルにくくり付けた竹の棒を上り下りしたり、水のはった洗面器に顔をつけて息を止める競争をしたり。
当時の児童数は800人、各学年い組・ろ組・は組の3クラスありました。3年生の時に国民服(長袖シャツに、男子は半ズボン、女子はもんぺ)ができるまでは、着物で通っていました。もちろん靴などはなく、雨の日も寒い日もいつも裸足でした。
休み時間には、女子は縄跳びやゴム飛び、男子は鉄棒や相撲や跳び箱など、常に体を動かして遊んでいました。

◇紬でできた特攻機
ある日のことです。朝会の最中に、特攻機が現在の沖高のあたりから東へ200mの場所に墜落するのが見えました。先生の注意は聞かず、私たちは興味本位で現場まで走りました。
そこにあったのは、30度くらいの角度で頭から畑にめり込んでいる特攻機の残骸でした。
初めて間近に飛行機を見た私は、その尾翼にそっと触れてみて驚きました。なんと、紬でできていたのです。
あとで先生より、日本は飛行機を造るための物資が不足しているからだと聞きました。今考えれば、とりあえず沖縄まで行ければいい、使い捨てで十分だということなのでしょう。
幸いにも、飛行士は無事でした。勇ましい彼の姿に、幼い私は憧れを抱いたのを覚えています。

◇男は消耗品
当時は、男は消耗品だと言われていました。学校では「名誉の戦死をすれば、靖国神社に神として祀られ、恐れ多くも天皇陛下が参拝に来られる」と教えられていました。
戦時中の教育は、本当に恐ろしいものです。私は疑うことなくそれを信じ、死ぬということは全く怖くありませんでした。

◇芋の思い出
その頃のお弁当といえば、芋3つに塩が少々。昼食時間になると、いつも校庭に出ていく友人がいました。どうやら昼食を持ってきていないようでした。
家に帰って母に話すと、「明日から、その子の分も持って行ってあげなさい。家に畑のない子は、食べるものがないのだよ」と。次の日、他の生徒が食事を済ませて外に遊びに出ている間に、その友人にそっと芋を手渡しました。その時の彼の喜ぶ顔が、今でも忘れられません。
それから毎日、母は友人のためにも芋を持たせてくれました。その時の思い出があるので、私は今でも人の喜ぶ顔を見るのが大好きです。
人を喜ばせることに生きがいを感じながら、今も暮らしています。
子どもには平和の種を蒔き、大人は平和のバトンを次世代へ繋ごうではありませんか。

《profile》
氏名:児玉 富杢(こだまとみもり)
生年月日:昭和4年12月
出身字:屋者
現職:農業

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