今年は「昭和99年」。太平洋戦争末期の昭和19(1944)年2月8日、日本軍の輸送船りま丸(6989トン)が黒島近くの東シナ海で米潜水艦の魚雷攻撃で沈められてからまる80年になります。
当時、種子島や馬毛島などに多数の兵士の遺体が流れ着きました。将兵約2700人を含む3200余人が乗船し、うち2700余人が戦死したとされています。島民は各地で遺体の収容にあたり、城ノ浜近くで荼毘に付したそうです。馬毛島にも100人を超す遺体が上がり、数か所に集めて埋葬されたといいます。
馬毛島で戦争の名残が再び姿を現したのは、2022年10月の文化財調査でした。島の南西海岸で人の骨や歯、衣類のボタン、金具が見つかりました。とりわけ金属プレートの「認識票」は、りま丸に乗船していた部隊の兵士が身につけていた遺品とみられます。
認識票には縦に3行、右から「潮八九八四」「西四七」「四六番」の文字が刻まれています。独立混成第19旅団(通称潮部隊)の認識票と見られます。同部隊は福岡で編成され、門司を出て香港に向かう途中でした。戦死者には西之表市(現和)出身者も含まれていました。
今回見つかった人骨や認識票について厚生労働省に情報を伝えましたが、23年9月、「人物の特定に至らず」との回答でした。認識票の文字・番号から身につけていた兵士の氏名が分かれば、近くで見つかった骨片のDNAを照合するなどさらなる調査に進むことも考えられましたが、究明は中断することになりました。
現在、骨や歯は市の無縁墓地に納められ、認識票やボタンなどの遺留品は鉄砲館で年末まで展示した後、同館で保管してあります。馬毛島の最高地・岳之腰に立てば、西方に、りま丸沈没の黒島近海が望めます。戦没者慰霊に貴重な場所であると改めて感じます。
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