第二次世界大戦の空襲が激しくなった昭和19年夏。大都市の小学校児童を安全な地方へ一時移住させるために「学童疎開」は始まりました。県内での本格的な学童疎開は、沖縄戦が始まり、次の上陸が必至と考えられた種子島や甑島など、離島の学童疎開でした。
本市と伊佐市(旧大口市・旧菱刈町)は、「学童疎開」という、つらく悲しい出来事で繋がります。親元を離れ、心細かったであろう本市の2,838名の疎開児童。自らが生きていくだけで精一杯の時代に、見ず知らずの子どもを受け入れた伊佐市の受入家庭。どちらの立場を思っても、胸が苦しくなります。
しかし、戦争・疎開という苦しい時代を共に生き抜いた絆は、昭和37年に「姉妹都市盟約締結」という実を結び、これまで62年の長きにわたり市民交流・行政交流として、友情を育んできました。(西之表市・伊佐市交流事業戦後70年学童疎開記念誌「つなぐ‐語り継ぎたい想い‐」一部抜粋)
「平出水の疎開記念樹」…本市横山地区の方々が建てた記念碑と記念樹が植えられています。
11月9日から11日まで、西之表市グリーン・ツーリズム推進協議会の会員14名が伊佐市・西之表市交流事業で伊佐市を訪れました。
今回の交流事業は、両市が行うグリーン・ツーリズム事業のさらなる発展と会員同士の交流や連携強化を目的として実施されました。交流では、伊佐市役所への表敬訪問や伊佐市内の観光名所の見学、伊佐ふるさとまつりへの出展を行い、伊佐市の方々の心の温かさに触れる充実した交流となりました。
また、戦時中に疎開経験のある楢原秀史さんは、疎開先である大口東小学校を訪れ「涙が出るくらい嬉しい。当時のつらい思い出もあるが、ほんとにみんなが生きるのに必死な時代。受け入れてくれた伊佐市には感謝しかない。グリーン・ツーリズムを通して、少しでも恩返しができれば嬉しい」と語ってくれました。
苦しい時代を共に生き抜いた絆。私たちには、この絆を、未来を担う子どもたちへ紡いでいく使命があるのではないでしょうか。
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