文字サイズ
自治体の皆さまへ

【郷土史への扉】霧島への移住

27/28

鹿児島県霧島市

春は異動の季節。新しい職場や学校など、さまざまな理由で新天地・霧島にやって来た人や霧島から旅立った人がいると思います。薩摩半島と大隅半島の中間に位置する霧島の地は、昔からいろいろな人たちが訪れる場所。今回は、命令によって霧島の地に移住した人たちの話を紹介します。

■九州内からの移住
古い時代から、政治の都合によって移住を命じられる人は多くいました。大隅国が設置された和同7(714)年には、豊前(ぶぜん)国(現・大分県)からおよそ200戸の人々が移住して来ました。これは当時、朝廷の支配に抵抗する隼人と呼ばれた南九州の人々を、朝廷の支配下の民として豊前の人々が教え導くことを目的に行われたものです。当時の霧島市辺りだと考えられる地域の桑原郡には、豊前国などと関わりがあると思われる「大分」「仲川」「豊国」といった郷名の記録があり、移住者の集落があったことがうかがえます。
国分上井にある韓国宇豆峯(からくにうづみね)神社は、豊前・豊後(ぶんご)の人々が信仰していた神社を移住者がもたらし、地域に根付いたものです。移住は単に人が移動するだけでなく、その地域に新たな文化や習慣、価値観などをもたらすものでもあったのです。

■藩内からの移住
江戸時代、福山町の牧之原地域には、福山牧という藩の馬を育てる広大な敷地がありました。安永(あんえい)8(1777)年の桜島噴火の影響で、一部地域が灰や軽石に覆われる甚大な被害を受けます。翌9年、同様の被害を受けた垂水の牛根(うしね)地区の人々は、藩の命令で牧之原へ移住。その翌年には、薩摩半島に住む農民87戸・(※)郷士(ごうし)6戸も移住を命じられました。ちょうどこの頃、薩摩藩では人口が集中する薩摩半島から大隅半島へと人を移住させる、人配(にんばい)という政策を実施。このとき移住した人たちが開拓してできたのが、現在の福地・福沢という地域です。川路原にある稲荷神社は、これらの人々の繁栄を祈念して建てられたもので、移住の歴史が刻まれています。
一度荒れてしまった地域は、移住という行為によって物理的に整備開拓され、新たな地域が形成されていきました。

■市内での移住
集落の移転は近代に入っても行われました。現在の陸上自衛隊国分駐屯地周辺は、国分海軍航空隊国分第一基地の用地として昭和16年ごろから用地買い上げがあり、2年後に完成しました。対象の地域に200戸ほどあった民家は1カ月以内の立ち退きを軍に命じられ、隼人町の真孝・見次地域などにまとまって移住しました。そのため、もともとの地名や集落名がそのまま使用されるという状況が見受けられます。
市内にはこの他にも、さまざまな人や集落の移転によってできた場所や地域があると考えられます。その時代の政治や社会情勢に翻弄(ほんろう)されながら霧島にやって来た先人たち。「移住者(よそもの)」は、過酷な新天地を切り開きながら、新たな地域を作っていく大事な存在なのでしょう。
(文責=小水流)

※郷村において居住していた武士のこと。薩摩藩では多くが半農半士として農業なども行っていた。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU