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【郷土史への扉】霧島への移住

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鹿児島県霧島市

前回は霧島への移住を紹介しましたが、今回は霧島から世界へ移住していった人たちの話です。

■移民の時代
移民というと、近年ではウクライナからの避難民の受け入れなどがありました。日本は関係がないと考える人が多いかもしれませんが、現在は外国人労働者を多く受け入れ、歴史上では日本からさまざまな国に人が移動している移民大国なのです。特に明治から終戦にかけての近代では、多くの人が移民として外国に。中には霧島の地から移住した人も多くいました。

■アメリカへの夢を携え
国外渡航が解禁された明治時代、特に後期にあたる明治33(1900)年ごろから、多くの日本人がアメリカ大陸に渡っていきました。ハワイやカリフォルニア州への移住が多く、『国分郷土誌』には国分からアメリカへ渡った人の体験談などが収録されています。それによると、大正8(1919)年時点で南カリフォルニア在住の国分出身者は100人以上いたようです。このころの北米移民は主に出稼ぎ型で、単身男性が故郷に錦を飾ることを目的とするものが多かったようです。しかし、日露戦争など国際情勢の影響もあり、アメリカにおいて日本人の排斥運動が高まり、移住した人々は厳しい環境下での生活を強いられました。
国分府中町にある祓戸(はらいど)神社の石灯籠は、明治39(1906)年にアメリカに渡って10年過ごし、国分に帰ってきた人が奉納したものです。灯籠には無事に故郷に帰れたことに対する、神への感謝が刻まれています。

■過酷だった移住の旅
大正13(1924)年にはアメリカへの日本人移民が禁止され、移住先はブラジルなどの南米が中心になっていきます。人口の急激な増加問題に悩み、植民地獲得も目指していた当時の日本。労働力を求め移民を積極的に受け入れるブラジル側の思惑とも相まって、国策として多くの人々をブラジルに送り出しました。
明治41(1908)年の第1回ブラジル移住募集には、全国から781人が集まりました。それから50年間にわたって移民が行われ、国分からだけでも500人近くが移住しています。
このころは単身ではなく、現地で農業を営み定住する家族移民が主でした。大正7(1918)年には、国分から169人がブラジルへ渡っています。しかし、昭和15年までの間に、その内の55人が亡くなり、10人が行方不明に。7人で移住し、1人しか生き残れなかった家族もあったようです。2カ月に及ぶ航海や慣れない土地の環境・文化の違いなどに直面した先人たちの苦労がしのばれます。

■アジアへの移住と引き揚げ
昭和初期には日本領有の地域が拡大し、樺太や朝鮮半島、台湾や南洋諸島などへ渡る人も多くなります。終戦後は各地に移住した人が引き揚げ、国分だけでも約4千人が帰ってきたとされています。
現代とは異なり、どの時代も命の危険が伴うような過酷な旅だったことは言うまでもありません。一方で、人々は新天地への希望を持って移住していきました。太古から、世界は人々の移動と交流で発展してきたのです。
霧島市に住んでいる人、旅立った人、新たに住む人とさまざまな人がいますが、それぞれのルーツがあった上で今につながります。移動が多い時代だからこそ排斥するのではなく、互いのルーツを尊重しながら支え合うことが求められるのではないでしょうか。
(文責=小水流)

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