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【郷土史への扉】昔の交通事情~港編~

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鹿児島県霧島市

霧島市は県央に位置し、空港や高速道路、鉄道を有する交通の要衝です」という紹介文を見たことがある人は多いのではないでしょうか。
和銅6(713)年、大隅国が建国され、その(※)国府は国分府中にあったと推定されています。この時代、都と地方国府を結ぶ幹線道路・官道が全国的に整備されました。大隅国府でも官道の整備が行われ、霧島市は1300年も前から交通の要衝であったといえるでしょう。

■いにしえの港、鳩脇八幡崎
昔の交通事情について考えるとき、冒頭の紹介文には出てこない交通機関があります。それは、港です。
安元3(1177)年、平家打倒の陰謀が発覚し、捕らえられた僧・俊寛(しゅんかん)などが鬼界ケ島(きかいがしま)(現・硫黄島)に流されます。その時の出港に使われたのが、鳩脇八幡崎(現・隼人町野久美田の清水川河口付近)です。天文20(1551)年には、戦で焼けてしまった大隅正八幡宮(しょうはちまんぐう)(現・鹿児島神宮)再建のために京都からご祭神(神像)を運んだ際、上陸したのが鳩脇の地だという記録も残っており、海上交通の要衝であったことがうかがえます。

■江戸時代の浦
江戸時代における港は浦と呼ばれ、現在の鹿児島湾内には浦を結ぶ航路がありました。寛政12(1800)年、当時の国分郷には小村浦・浜村浦・永(長)浜浦・浜之市浦、福山郷には福山浦があり、霧島市の海岸線には五つの港があったことになります。
中でも栄えたのが、都城や曽於地方から鹿児島城下への最短経路であり、島津一門の年貢米集積庫や造船所があった福山浦と、海外交易や大隅正八幡宮、霧島方面への交通拠点であった浜之市浦です。明(中国)との交易にも使われ、溝辺や横川、栗野からの物資の集積地でもあった加治木浦と並んで繫栄しました。

■船の乗客たち
船に乗ってやってきた客人として知られる坂本龍馬・お龍(りょう)夫妻や小松帯刀は慶応2(1866)年、霧島温泉へ向かうために浜之市浦に上陸しました。
これより前にやってきた江戸の講釈師・伊東凌舎(りょうじゃ)は天保7(1836)年、興味深い行動をします。霧島神宮参詣の帰り道に浜之市を通ったにもかかわらず、そこから船に乗らずに陸路で加治木へ向かい、加治木浦から乗船して鹿児島へ向かったのです。また、凌舎はこの参詣旅の途中で、福山から船に乗るつもりが船が出ず、陸路で小浜まで来たと聞いた話を、旅行記『鹿児島ぶり』に記しています。当時の人々も今と同じで、天候や行程などを考慮しながら交通手段を選んでいたのかもしれません。

■現在の港
霧島市には永浜港・隼人港・隼人新港・国分港・福山港と五つの港があります。そこから漁船や遊漁船、クルーズ船、ヨットなどが出航し、堤防は釣りスポットとしても親しまれ、海のある風景を満喫することができます。暑い季節、潮風を感じに出かけてみてはいかがでしょうか。ただし、日焼け対策をお忘れなく。
(文責=堀之内)

(※)国府とは、奈良時代から平安時代に、国を支配する行政官が政務を執る施設や、その所在地。

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