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【郷土史への扉】粧(よそおい)の歴史

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鹿児島県霧島市

今月も大河ドラマの話題から始まります。平安絵巻の世界が描かれる「光る君へ」では、十二単(ひとえ)を身にまとった姫君や、りりしい公達(きんだち)の姿がとても華やかですが、通説となっている当時のの姿とは少し異なる部分があります。それは化粧です。

■化粧の変遷
古墳時代以前、顔を赤く塗ったり入れ墨をしたりといった化粧には、身を守る呪術的な意味合いがあったと考えられています。仏教をはじめとする大陸の先進文化とともに最新の化粧法が伝来すると、化粧は上流階級が身を飾るものとなりました。「白い肌=美しい」という審美感も、このころ大陸から伝わったとされます。
国風の文化が花開く平安時代になると、化粧も独自に変化。肌を白く塗り、自分の眉を抜いてそれより上の位置に別の眉を描き、唇には小さく赤い紅べにを差し、歯をお歯黒にする。白・赤・黒を基調とした日本の伝統化粧が生まれました。「源氏物語絵巻」など絵巻物に出てくる人々の顔や、能で使われる女性の面などにその様子がうかがえます。化粧は上流階級の権威の象徴として高貴な身分を表すもので、女性だけでなく男性も化粧をしていました。
武士が政治を行うようになると、武家から庶民へと化粧が広まります。江戸時代の初め、格式を重んじる武家の女性にとって、化粧はたしなみであり、ルールに沿ったものでした。一方、男性の化粧は公家や歌舞伎役者などを除き、廃れていきました。
江戸時代の中期には、江戸や京都・大坂の商人などが経済力を持ち、町人文化が盛んになります。人々は美しさを目指す化粧を楽しむようになり、人気の歌舞伎役者や遊女がファッションリーダーとしてもてはやされました。既婚女性は眉を剃りお歯黒をするのが一般的でしたが、その風習は明治になり西洋文化を受け入れる過程で次第に姿を消していきました。

■霧島市の粧(よそおい)事情
江戸などの中心部における化粧については、書物や浮世絵、幕末の写真などでその様子をうかがうことができますが、地方に住む一般の人々の化粧について分かる資料は、あまり見つかっていません。
そんな中、市内の遺跡から身だしなみに関する物が発見されています。隼人町の弥勒院という寺院跡から髪油などを入れる油つぼ、富隈城跡付近では鬢水(びんみず)入れという、櫛くしに整髪料を付けるための容器が出土しています。
他にも富隈城跡からは、お歯黒をした入れ歯が発見されました。見つかった地層や入れ歯の材質、お歯黒が施されている点などから、大正時代から昭和初期のもので、大きさなどから小柄な高齢女性が使っていたと考えられます。入れ歯は使用者と一緒に埋葬されることも多いため、遺跡の発掘調査から発見されるのは珍しいことです。
地方では、昭和の初めごろまで、お歯黒をした女性を見かけることがあったそうです。霧島市でもそういう光景が見られたのかもしれません。
(文責=堀之内)

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