■佐渡をしのぐ金山
「佐渡(さど)島の金山」(新潟県)の世界文化遺産登録が決定しましたが、かつて佐渡をしのぐ産金量を誇った金山がありました。横川町とさつま町にまたがる山ケ野金山です。
◇金山の発見
江戸時代中期、川から金の付いた石が見つかったという知らせを基に、宮之城領主の島津久通は石見(いわみ)銀山(島根県)から専門家を呼び、肥後の山師と共に金を探させ、寛永17(1640)年に金鉱脈を発見しました。久通はすぐに藩主の光久に報告、幕府に採掘を願い出ます。
寛永19(1642)年1月に採掘許可が下り、周囲約3里(12キロメートル)に柵を巡らせて操業を開始。幕府には永野(長野)金山の名で届け出がありましたが、鉱脈が主に山ケ野地域であったため、藩内では山ケ野金山と称されました。
しかし、同年12月、突然幕府から採掘中止の命令が下り、一旦閉山することになりました。
◇日本一の産金量
採掘中止について、幕府は全国的な飢饉(ききん)を理由にしていますが、あまりの産金量に驚いたためではないかといわれています。伝承では、初期の頃は表層部に金鉱石があり、(※1)露天掘りでおびただしい量の金が採れていたようです。
採掘中止から14年後の明暦2(1656)年にようやく再開が許可されます。表層部の金が採り尽くされると、地中深くの鉱脈を掘削する工法に変わりましたが、産金量は減っていきました。発見から採掘中止までの3年間と、再開後から幕末までの約200年間の産金量を比較すると、最初の3年間の方が多かったともいわれています。
減ったといえども豊富な産金量を誇った山ケ野金山。全国的に産金量の落ち込んでいた宝暦から文政年間(1751~1830)にかけては「金山の名に値するものは薩摩の山ケ野金山だけ」といわれ、当時は全国一の産金量を誇ったとされます。文化元(1804)年の産金量は佐渡金山が4815(※2)匁(もんめ)、山ケ野金山が約3倍の1万4786匁であったとされ、山ケ野金山の金が江戸の金座を維持したとも。江戸期を通じて豊富に金が出続ける金山でした。
◇越境する人々
金が出てきた山ケ野地域ではゴールドラッシュが起こり、最初に採掘許可が出た際は2万人もの人が集まったといわれています。再開時にも、約1万2千人の人口があったとされ、作業場や住居の他に商店などが立ち並び、西国三大遊郭に数えられた遊郭ができるなど、多くの人々が集まり住まう場所でした。今でも山ケ野地域には江戸や大坂、石見や芸州(広島県)などさまざまな出身地が刻まれた墓が残っています。日本各地を旅して紀行文や地理書を残した古河古こ松しょう軒けんが著した『西遊雑記』には、薩摩藩に入る際には金を掘るためにやってきたといえば簡単に関所を通れたという話もあり、藩外からも多くの人が集まっていたことが分かります。
一時、金と人であふれた山ケ野。太平洋戦争の頃まで操業されていましたが、戦後は休山となっています。多くの人が夢見た黄金の里に、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
(文責=小水流)
(※1)トンネルを掘らずに、地表から鉱脈をめがけて掘っていく方法。
(※2)重さの単位の一つ。尺貫法という計量方法の単位で、1匁(もんめ)は3.75グラム。
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